経済学

Contents

経済学入門

経済の始まり

経済とは

経済とは生産と消費、それらが社会で繰り返されて起こりえる活動の事を言います。

エコノミーともいう。( economy)

財やサービスの提供のことも言う。

ココでの財とは貨幣の事もいい、または物質であうる商品もその内に入る。

サービスは物質が後に残らない精神的満足を与えるものです。

経済の歴史

経済学の歴史はまだまだ浅く最初は18世紀ごろになると思われます。

古典派経済学

古典派経済学とは18世紀後半にスコットランドの経済学者でジェームズ・ステュアートが、1767年の著書「An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy (政治経済学原理の研究)」で発表されたのが最初とおもわれます。

続いて同じくスコットランドの経済学者であるアダム・スミスが1776年に著書「国富論」で後に世界の注目を集めた。

その後フランスの経済学者ジャン・バティスト・セイが1803年に、経済学を、富の生産、分配、および消費の科学と定義しました。

ジョンスチュアートミルは1844年に、富の生産のための人間の共同作業から生じる社会現象について、それらの現象が他の目的の追求によって変更されない限り、その法則を追跡する科学と言った。

デビット・リカードはイギリスの経済学者で、各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費税」が有名です。「近代経済学の創始者」として評価を受けています。

1770年後半から1870年代前半の古典派経済学の基本の一つに労働価値説という考え方があった。より根源的な価値の源は人間の労働であるという思想が基にあった。この考え方はアダム・スミスから始まりリカードやマルサスに至るまで古典派経済学者の基礎となる考えであり続けた。

また労働価値説は、投下労働価値説と支配労働価値説の2種類があった。投下労働価値説は、商品の価値が、その生産に投入された労働量によって決まるという説であり、支配労働価値説は、商品の価値が、その商品で購買あるいは交換できる他の商品の労働量によって決定されるという説である。

1776年アダム・スミスが国富論において「見えざる手」という概念を考案した。個人が自由な市場において、個々の利益を最大化するように利己的に経済活動を行えば、まるで見えざる手がバランスを取るかのように、最終的には全体として最適な資源の配分が達成されるというものである。この「見えざる手」は、現在では「価格メカニズム」と呼ばれる。

 

アダム・スミスとは?

18世紀に生きた経済学者でスコットランド人です。有名なのが1776年の「国富論」になります。経済学の父とも呼ばれています。

アダム・スミスが生きた18世紀のイギリス社会は政治の民主化、近代西欧科学の普及と技術革新、経済の発展といった「啓蒙の世紀」であった一方で、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えた世紀でもありました。光と闇の両側面を持つ18世紀イギリス社会はアダム・スミスの思想に大きく影響したとされます。

ジャン=バティスト・セイとは?

フランスの経済学者で、18世紀から19世紀にかけて活動しておりました。競争、自由貿易、および事業上の制約の引き下げに貢献しました。「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」が有名です。

セイの法則とは、「供給はそれ自ら需要をつくりだす」という命題に要約されるものです。一般に経済を四つの分野(生産物市場、労働市場、債券市場、貨幣市場)に分類し、貨幣市場を除いた残りの財市場において「全体としての需要と供給がつねに等しい」と考える体系がセイの法則であると考えられています。「非貨幣市場の総供給と総需要は常に一致する」という原則です

ジョンスチュアートミルとは?

19世紀に生きた経済思想家です。ミルの業績の中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献であろう。ミルの著わした「自由論」(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。

デビット・リカードとは?

自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費税」を主張した。経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学の創始者」として評価されている

新古典派経済学

アルフレッド・マーシャルが最初の発端といわれる。1890年に発表された「経済学原理」は有名であります。

新古典派経済学は自由放任主義(レッセフェール)の理論であるとの見解がしばしば表明されてきましたが、ケインズ以前あるいはケインズ以外の自由主義経済学派の系統と呼ぶのがより実体に近く、政治思想としての自由放任主義、とくにリバタリアニズムやアナキズム(無政府主義)とは大きく異なり、公共財の供給や市場の失敗への対処、あるいはマクロ経済安定化政策など政府にしか適切に行えないものは政府が行うべきであるとするなど、政府の役割も重視する。新古典派経済学の源泉は、道徳哲学の延長にあり、(新古典派経済学などの伝統的経済学では)社会的・文化的要素は基本的に重視されない

自由主義の観点では、たとえばレオン・ワルラスはすべての国土の国有化を提唱しており、無条件で手放しの自由放任主義者ではない。ワルラスによればアダム・スミス流の経済学はむしろ応用の側面から経済学を定義したものであって、理想的な社会実現の夢を膨らませていたワルラスは「土地社会主義」を基礎として、そこから完全競争社会、ひいては完全な人間社会を描こうとした

マーシャルが創設したケンブリッジ学派おいては、不完全な人間が作った経済が完全であるはずがないとの共通認識があった。マーシャルは自由放任主義に基礎をおく価格決定論(ワルラスの一般均衡)には批判的であり、不完全競争の世界を前提とした部分均衡分析を活用した

「主流派経済学=新古典派には、需要不足による不況の視点がないと指摘されることがあるが、現在(2003年)の理論研究の中心である最適化行動に基づく動学一般均衡理論から、十分需要不足による停滞・マクロ政策の効果を導くことができる。情報の経済学を応用したモデルなどがその例である。新古典派であるからいつでも適切な均衡にあるというのは、学部教育での便宜的な単純化に過ぎない」と指摘している。

アルフレッド・マーシャルとは?

「経済学原理」(1890)では需要と供給の理論、すなわち限界費用と生産費用の首尾一貫した理論を束ね合わせた。

19世紀から20世紀にかけて活動しています。

マーシャルの経済学では、ミクロの価格理論などの分析手法を用いて、労働者の低賃金を高くする、或いは過酷な労働を和らげることを目標としました。

ケインズとは?

19世紀から20世紀において活動した20世紀においてはトップクラスの経済学者。イギリス出身。

「雇用・利子および貨幣の一般理論」(1935)では、不完全雇用のもとでも均衡は成立し得るとし、また完全雇用を与えるための理論として、反セイの法則を打ち立てて、「産出高は消費と投資とからなる」とする有効需要の原理を基礎として、有効需要の不足に基づく非自発的な失業の原因を明らかにした。

有効需要は、市場メカニズムに任せた場合には不足することがある。しかし、ケインズは、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づいて、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、有効需要は回復することができるとした。生産者が価格を変えずに、供給量を総需要に応じて調整する。ケインズは総需要の増大させる方法として、財政政策、特に財政支出政策を重視した

なお、上の議論に対しては、公共投資や政策ないし投資の国家管理の本質は、単なる有効需要の付加ではなく、政府による公共投資が企業家のマインドを改善することで経済全体の投資水準が底上げされ得るという点にあり、生産手段の国有化を意味するものではない。

これらの彼の提唱した理論を基礎とする経済学を「ケインズ経済学」(「ケインズ主義」ともいう)と呼ぶ。このケインズの考え方は経済学を古典派経済学者とケインジアンとに真っ二つに分けることとなった。そのため、ケインズ理論の提唱は、のちにケインズ革命と呼ばれるようになった。

ケインズは、大不況下では、金融政策は効果的ではなく、消費を直接的に増やす財政支出政策が最も効果があると主張した。ケインズの有効需要創出の理論は、大恐慌に苦しむアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の強力な後ろ盾となった。

経済学の5つの概念

1・トレードオフ

ここでは希少性が重要であり、何かを手に入れれば何かを失う事をいいます。

人間がもてるお金には給料などの限界があり、その中で何かを選択しなければなりません。

お金以外の考え方でも、例えば時間もトレードオフの対象です。時間は有限であるため、何を選択するかは人次第です。

2・インセンティブ

インセンティブ(誘因)は何かの値段が一時的に下がれば、何かが欲しくなる。それはインセンティブ(誘因)が働いたといいます。

選択を行動として捉えるのがインセンティブです。例えば、原油が高くなれば車での外出を控えたとします。それはインセンティブの低下がされたともいいます。

3・交換

財産は市場で交換として取引されます。元の値段であり原価が高いものはそれなりに交換されます。

そもそもが自分の職業があり、そこで稼いだ額で市場の様々な場面で交換がされているのです。

アメリカなどは混合経済と呼ばれ、生産者と購入者の需要と供給だけでなく、政府の指示で市場をコントロールされる場合もあります。

4・情報

効率よく経済を回すには情報は不可欠です。

情報は民間企業が取引をするのに希少な資源を使って取引をするのに役立ちます。

5・分配

市場は社会に効率よく生産された財産やサービス、お金の分配をされることを望んでいます。

 

3つの市場

1・生産物市場

企業が生産物を市場に卸し、家計に販売するのを生産物市場といいます。

2・労働市場

そのままの意味の通り自分の労働力を企業に売って稼ぐことをいいます。

3・資本市場

お金の調達などをする市場です。

ミクロ経済とマクロ経済

ミクロ経済とは家計と企業の間の取引を主にミクロ視点で観察し、マクロ経済とは失業や経済の成長、物価、インフレなどを取り扱っています。

 

経済学に対する思考法

基本的競争モデル

3つにわけられるが、消費者がどのように行動するかと、企業がどのようにこうどうするかと、消費者と企業がお互いに干渉しあう場合が考えられる。

消費者の理想的な金額と企業の儲けが最大限出るポイントを目指していくのが重要です。

そんな中で競争が行われるのです。

政府は今回入れませんでしたが、それ以前に企業と消費者の関係がまずは大事なんです。

商品の値段はほぼどこにいっても同じですが、この状況は完全競争状況になっていると言えます。企業はプライステイカーとと呼ばれ、これ以上安くできないギリギリのラインで他の同業者と戦っているのです。

なぜならある一定以上金額を上げてしまうと売り上げの全てを失ってしまうからです。

このシステムが正常に働いているとするならば、ここの市場は非常に効率的に動いているともいえます。

なぜなら商品が全く売れないならば、ほかの商品を売る為の費用が削られることとなり、結局回りまわって経済の循環が悪くなり、不景気になってしまいます。

競争社会である以上ある一定の技術の持った人に富が集中してしまう事もじゅうぶんありえます。

そのため平等という概念はとても難しいのです。

 

インセンティブの効用

社会が正常に働くにはインセンティブがなければなりません。

インセンティブは社会の重要事項です。

人々はインセンティブがなければ活動しません。

学校に行くことも会社に行くことも、もっと良い商品を作ろうとも、たくさんのサービスを届ける事もしません。

一般経済は市場に情報をもたらし、利益と結果をもたらします。

それによりインセンティブを得る重要性を与えているのです。

そのような価格の仕組みに社会は守られています。

インセンティブとはある意味口コミとも言えるのではないでしょうか?

土地を持ってそこに商業施設を開設したとする。すると大盛況するとしましょう。しかし、そこにパチンコ屋をつくったとして客がこなかったとします。

するとインセンティブはより良い方に与えられるものだと言えると思います。

しかし逆にインセンティブの不公平が起こる場合もあります。

収益が上がってお客が来てもそれはインセンティブ・平等のトレードオフといいます。

インセンティブが大きければ大きいほど不平等は起こるのです。

 

市場における3つの要素

価格・所有権・インセンティブは市場における基本的要素です。

所有権がハッキリせず効率的に最大限活用できなければ、結果的に非効率が起こります。

なにが言いたいかというと、インセンティブはとても重要で、利益は消費者に望むものを与え続ける事でインセンティブを得て、収入もまたインセンティブを与えて、所有権もまた貯金を有効利用する事にインセンティブを得るための手段となりえるのです。

トレードオフについて

機会集合という概念が重要になってきますが、自分のもっているリソースを明らかにするという事です。

分かりやすく言うのであれば、例えば米があってふりかけと卵があったとします。これに納豆はないので納豆はありえません。ふりかけごはんか卵ごはんがいいところでしょう。

決まったリソースで選ばなければならない事を機会集合であるといいます。

金銭によってもちいられる機会集合を予算制約といいます。

時間によってもちいられる機会集合を時間制約といいます。

社会や会社も機会集合のもとによります。

会社や社会が生産できるお金の総量を生産可能性といいます。

そして収益逓減という原則もあります。

収益逓減とは人は最初は増やせば増やすほど収益はあがりますが、別の事を始めれば、ある一定を超えると収益は効率が悪くなる事をいいます。

機会集合でトレードオフは相対価格になるといいます。

相対価格とは片方は100円のものを買うのと500円のものを買うのでは5倍の差があります。しかしこれを少しいじると、100円のものを5つ買っても500円。500円のものを1つ買っても500円。すると250円のものを2つ買うと500円になります。これを相対価格といいます。

次は機会費用について解説します。

機会費用とは旅行に5万円で1週間いったとします。費用はもちろん5万円です。しかし、ここで機会費用を考えると1週間の休んでいたバイト代の計算も考えなければなりません。大雑把にそんな感じです。

機会費用と交換について。

交換する際にAとBがあったとすると、りんごとおにぎりをAとBが販売していたとします。

AとBでは効率化が違ってAとBでは2倍の生産が違うとするでしょう。りんごもおにぎりも両方Aのほうが優れている。この状況を絶対優位といいます。

しかしもしこれがAとBそれぞれ得意不得意があったとして売り上げに差があったとするならば、それは比較的優位といいます。

次はサンクスコストです。

サンクスコストとは費用は払ったけども無視していいコストの事です。厳密には無視せざるをえなかったコストの事をいいます。

例えばディズニーランドに行って入場料を例えば5千円払ったとしましょう。しかし、雨が降ってきて3時間の滞在予定が1時間になってしまいました。

この無視しても仕方のないコストの事をサンクスコストといいます。

次は限界費用と限界便益について解説します。

限界費用とは例えば旅行に行ったとして10万円かかるとします。自分はこの限界費用を計算に楽しまなければなりません。10万円のもとを取る位でいいと思います。

限界便益それらから得られる便益のことを言います。

効率

パレート効率性

自分ではない誰かが犠牲にならなければ、得が生じない状況が完全にまかり通っている状態をパレート効率性といいます。

交換の効率性とは市場において人々は自分の好みのおにぎりを例えるならば誰かが知っている必要がなく、自分で勝手に欲しいものを必要なだけ購入するという交換が効率よく自然に行われていることを言います。

生産の効率性とは生産は市場は効率的にできており、例えば木のバットと金属のバットがあったとするならば、どちらか片方がその場を支配することなく需要と供給がそこに起こる事を言います。

生産物構成の効率化とは木のバットと金属のバットがどちらか片方を減らせばどちらか片方が生産が増えるという事。消費者の趣味趣向によるものに落ち着く。

パレート効率性とは交換の効率性と生産の効率性と生産物の効率性の3つが揃って成り立ちます。

部分均衡分析について。大きなモノ、例えば家賃や車を買った際など大きなお金が動くが、部分均衡分析とはそのような大きなものでなくジュースの値段が上がったとか、パンの原料の値段が上がったとか、ささいなものが上がった際は大きなモノは無視して経済を考える際に役に立ちます。

市場の失敗

不完全市場

政府が介入せずに市場が完全に競争的であり、企業と消費者が情報をキチンと持っている状態では市場は成功しているといえるでしょう。しかし、それがままならい時を不完全市場といいます。政府の手がその場合必要になります。

完全競争等

市場は3つにわけられます。1つ目は独占過去にグーグルが独占禁止法にふれているのではないかと政府などに訴えられています。2つ目は寡占。数社で争っている状況。3つ目は独占的競争。この3つ目はどこがトップとかはなくギラギラとたくさんの会社が覇権を握りたがっている状況です。

独占以外の2つを不完全競争という。

反トラスト法(独占禁止法)があるが、政府は常に目を光らせ市場の動向を見張っています。過去にはマイクロソフトも対象となっています。

完全情報

政府や企業、市民の全てが平等に情報をシェアしていると仮定されているが、現実は全くそんなことは理想論であり不完全情報と呼びます。

大切なのは誰がどれだけ苦労してそれを作った、あるいは採掘した、生産した。のではなくその結果の価格を知ればいいことです。

そして、市民はそれをなんとなく相場を知っているのです。りんごしかり、みかんしかり、様々な情報を持っています。

しかしそれは完璧ではなく、政府も市民にできるだけ多くの情報を与える事を肝にしています。

外部性

企業が排出物等をまきちらしながらも、利益を確保する事は昔ではよくある事でした。

個人や企業がそれらの問題を解決するのは当然ですが、それをする事により需要と供給のバランスが崩れる事もあります。

要するに非効率です。

公共

政府のおもわく

政府は市場の失敗、公正と不公正、価値材と不価値材と呼ばれるものをコントロールしたいのです。

市場の失敗とは、経済効果の改善。市場が正常に動いていても公平にならない場合もあります。さらに教育などの価値材、不正薬物などの無価値材の取り締まりをしています。

税金

税金はアメリカでは均等にバランスよく配分されるよう歴史の中で市民や企業から搾取されてきました。

まずは効率性。効率よく税金が回っていなければ当然いけません。税金が高すぎると、市民の熱量が仕事に向かわなくなります。よってむやみやたらに税金はあげれません。

次に柔軟性。柔軟に税率を社会の状況に合わせて変化させることが重要です。

次に管理の簡素性。税金の管理は時間がかかります。膨大な時間と費用です。脱税を防ぐためにも税金をしっかりと透明性のあるシンプルなシステムにする必要があります。

そして公平性。水平的平等と垂直的平等があります。自分と同じ環境の人間は同じだけ支払うべきというのが水平的平等。お金を持っている人ほど多くの額を支払うべきというのが垂直的平等です。

基本的に収入が高い程、税金が高いのを累進課税制度といい、逆に低いのが逆新税制度といいます。

経済の課題

まずは財政赤字があげられます。黒字を借金の返却にあてるか、減税を行うのか、年金や医療などに充てるか考えられましたが結果的にテロや戦争で国防費が上がりました。

その後政府に迫られたのが、税金の増税、借入、支出の削減のどれかです。

他には医療費があります。GDPはどの国よりアメリカは大きいのに、病気になる割合や寿命が先進国では低いのです。

マクロ経済学

マクロ的経済成長

まずは国民の総生産である国内総生産(GDP)があげられます。これは国内で生産された全ての商品の売り上げやサービスの事です。

実質GDPと名目GDPがありますが、これは物価などにより左右されます。

次に潜在GDPというものもあります。これは普通の勤務時間からずれる事なく決まった時間で決まった休みで規則的に経済が回った場合です。状況によっては実質のGDPが潜在GDPを上回ることも可能です。

GDP算出の問題もあります。医療やITなどの分野は発展が著しくその場での測定が難しいのです。

失業とインフレ

日本やアメリカはかつて失業率は先進国のなかでは低い方でした。しかし近年では失業率が上がっているのが現状です。

インフレとはインフレーションの略で、物価が上がる事をいいます。

過去に日本は長い時間デフレでしたが、他の国ではハイパーインフレといったものもあります。内容は1円の価値が10万円以上になってしまった事もあります。経済が破綻している状況といっても良いでしょう。

経済成長

生活レベルの向上

1900年の日本の人口は2000年以降には約3倍になっています。一人あたりGDPも20倍近くまで上昇しました。しかしそれと同時に1960年から現在にかけて老人の人口は5%から20%以上に上昇しました。

平均労働時間も1960年度から比べて1割ほど下がっています。

アメリカと比較しても顕著でアメリカは今でも出産率の維持と人口増加の一途を辿っています。日本はこれから1億人の人口を遠くない未来で割る計算になっています。

貯蓄

日本人は1970年ころには25%をこえる貯蓄があったのに現在では10%以下となっております。アメリカでは10%程度の貯蓄が5%以下になっているとも言われています。

ライフサイクル貯蓄という言葉がありますが、それは老後の資金の事です。現在は年金の受給年齢が過去に比べ引き上げられました。退職して引退した人が減れば貯蓄は大きくなります。

アメリカの貯蓄率が低いのは大きな買い物である家や車を手に入れるのに頭金がほぼいらないという事があげられます。日本に比べて審査が緩いんですね。

そう考えると過去の住宅バブルなどもうなずけます。

労働力と資源と技術進歩

まず人への投資は人的資本となります。人を育てるという事です。これも立派な資本です。技術力は重要です。

2000年ころのアメリカは大卒が高卒以下の人間よりも90%平均して稼いでいたというデータもあります。これは超学歴社会のアメリカならではでしょうが、1980年ころの30数%を大きく上回ります。急成長を遂げている東アジアはシンガポールや日本などがあります。アメリカは学習率が近年平均して低いです。これも極端に学習がいきわたっている所には高い学習を受けたエリート層がいるのではないかとも考えられます。

ここ100年では農業に始まり、製造業、そしてサービス業と、人がお金を稼ぐ仕組みが変わってきました。

ここでいうサービス業とは医師や弁護士、プログラマーなども含まれます。

医療の方でも2000年にはGDPが15%に達しています。

そして、今後はアイデアが必要とされる世の中になってくるでしょう。

アイデアは共有でき一度発表されればたくさんの人が使えます。

食べ物などとは違いずっと効用を期待できるものなのです。

アイデアを持つ人間には所有権・財産権を与えるほうが世の中のためになるでしょう。

アイデアは必ずと言っていい程盗まれます。

それを防止し人々の意欲に火をつけるのです。

貯蓄・資本・技術・投資が生産性を上げます。

これを説明するのに経済では全要素生産性分析を使います。

資本で理解できない事を全要素生産性と呼ぶでしょう。

新しい生産方式により、効率性が増しました。

工場の製造ラインが出来上がってきたのもココからです。

ここ数十年はテレビや冷蔵庫だけでなくパソコンやDVD、薬なども発展がめざましいです。

東アジア

第二次世界大戦から数十年で東アジアは十倍程の所得の増大を可能にしました。

経済の安定により過剰のインフレや失業率を下げ、財政の安定も手にしました。

25%を超える貯蓄も可能にし、投資の成功も一つの要因です。

教育と技術への投資もされました。

マクロ的経済が成功のカギと呼ばれ、資本分配が正常に稼働したおかげとも言われています。

昔の日本では貯蓄が全体の30%になることもあり、東アジアでも今回は25%を超えるほどの勢いだったらしいです。

東アジアでは他の発展途上国に比べ大成功を収めたのは輸出を活用したため、ともいわれています。

これを輸出主導型成長といいます。

補助金をつけたり、低所得とは無縁の海外の市場と勝負できたのが大きかったでしょう。

安かろう悪かろう、ではなく品質の良いモノを低価格で世界の市場に提供したのです。

世界の金融危機・環境危機

世界的不況

2000年頃、世界は不況に苛まれていました。

世界大不況です。

全世界を巻き込んでの不況なのに世界の国々はそれぞれの連携を取る仕組みがありませんでした。

アメリカも例外ではなく1930年以来の不況でした。

日本もそのあおりを受け、深刻なダメージをおいます。

アジアは最も早く回復したと言われていますが、2010年頃でもアメリカを始め先進国の失業率は高いままでした。

発展途上国では過去にこのような事はよくある事でしたが世界を巻き込む不況は例がなかったとも言われています。

アメリカのGDPも一時はマイナスになったほどです。

アメリカのバブル崩壊

これは主に住宅バブルの事を言いますが、この発端は最初は低金利で住宅を購入できあとから金利が上昇するという仕組みで、なぜそのような仕組みができあがったかというと住宅の価値はどんどん上がっていくから高金利でも支払いができるはず。そのように最悪住宅を売ってしまえば元金は返済できるという仕組みだったのでしたがバブルのせいで、それが不可能になったため不景気になってしまったのです。

バブルの結果何が起こったかというと、貯蓄です。ほとんど貯蓄のなかったアメリカ人が5%もの貯蓄をするようになりました。

消費がつまり低くなったのです。消費が低くなったため、銀行が金利を下げても企業はお金を借りづらくなりました。

2010年頃でも100を超える銀行が破綻しました。

国が救いを出せる余裕があったのは大手の銀行で精いっぱいでした。

倒産になったのは中小企業や個人に貸していた、中小銀行がほとんどです。

中小企業に対する投資は、結局削減されていきます。担保を必要とし、その大半は不動産でした。不動産の価値が40%程落ちていたので融資ができない状況に陥っていました。

結果失業者が増えたのです。

住宅の価値は3分の1まで落ちたと言います。

結果、借入をした人の4分の1ほどが大きな借金を背負ったというわでです。

2010年には300万人の人が住宅を失ったというデータもあります。

アメリカ発の不況

なぜアメリカの不動産バブルがこれほどまでに大きくなってしまったかというと、金融商品としてパッケージのなかに住宅ローンの入ったモノが世界中にばらまかれていたからです。

それにより、アメリカのみならずヨーロッパにまで火種がまかれてしまいました。

早まってしまった原因はイギリスやスペインでも同じような火種を持っていたためバブルがはじけたのです。

そしてアジアの銀行はアメリカの不動産パッケージをあまり買っていなかったためダメージは低かったと言われています。日本もまだ過去のバブルから完全に立ち直っていなかったためダメージは他のヨーロッパに比べ低かったといえます。

アメリカの失業率は10%までになり、スペインでは20%を記録。若い年の失業者は40%までになったと言われています。本当に大不況となってしまったのです。

その後多額の借金を他の国が返済するの困りました。日本の場合はGDPの190%も国債を発行する事になります。しかし貯金が多く低金利だったためこれを乗り切る事ができました。

 

ミクロ経済学

家計・企業・政府

日本の急速な高齢化の進行は,家計の貯蓄率や資産選択に大きなインパクトを与えると考えられている.実際は,家計の貯蓄水準は2000 年代に入った直後に大きく低下したが,その後はライフサイクル・モデルに基づく予測と比較して,相対的に高い水準に留まっている.その一方で,日本の家計の年金水準は国際的な比較で見てあまり高くないにもかかわらず,老後の収入を年金に依存する割合が高く,金融資産の構成は安全資産に大きく偏っている.したがって年金社会保障制度の維持可能性を担保するためには,家計の自助努力による資産形成を促すための投資環境を整備する制度改革を早急に行うべきであり,そのような改革は高齢家計間の不平等にも配慮したものである必要がある.また,積極的な資産運用を促すための政策・改革の一つの鍵として,家計にとっての資産運用コストを低下させるために,金融経済情報の取得をより容易なものにする必要がある.日本の家計が実際どのように金融経済情報を取得しているかについて,行動ファイナンス的な視点から分析を行った結果,リスク資産を保有しない家計の多くは資産運用に興味がなく,情報収集も行っていないが,リスク資産保有家計と比較しても長い時間を情報取得に費やしているが株式等に投資をまったく行っていない家計も一定割合いることがわかった.後者を積極的な資産運用に引き入れるための方策を考えることは,個人投資家を巡る金融制度・税制改革を成功させるために極めて重要である。‹1›

少子高齢化

平均寿命の延伸と出生率の低下により,程度の差こそあれすべての先進国において人口の少子高齢化が進行している.具体的には,我が国の 2018 年時点の平均寿命は女性が
87.3 歳,男性が 81.3 歳であるが,これは 25 年前の 1993 年数字と比べると男女ともに,ほぼ 5 歳長生きになっている.合計特殊出生率は 1993 年の 1.46 から,最低水準だった
2005 年の 1.26 を経て,2018 年には 1.42 まで回復した.しかし出生数で見ると,1993 年の 118.8 万人から 2018 年の 91.8 万人へと,約 27 万人も減少している.
また,高齢化の進行の速度を測る方法の一つに,倍化年数 (doubling years) と呼ばれる概念がある3.これはある国が 65 歳以上人口が x%(eg. 7%)に達してから,その倍の 2x%
(eg. 14%)になるまでにどのくらいの年数が掛かるか/掛かったで定義される.表 1 には,日本を含む主な先進国に加え,同様に高齢化が急速に進んでいる東アジアの幾つかの国の
倍化年数が示されている.
日本の人口高齢化の速度は欧米先進国との比較では圧倒的に早いものの,東アジア諸国の中では突出したものではないことが見てとれる.中国・韓国などの東アジアだけでなく,経済成長著しい東南アジアの国々も,近い将来に日本と同じような速度の高齢化を経験することはほぼ確実である.したがって,家計の金融経済行動をはじめとした日本の少子高齢化の経験から得られる政策的インプリケーションは,近い将来,これらの地域の国々にとって一般的かつ極めて重要な意味を持つことになると考えられる.さらにもう少し先の将来において,インドやアフリカ諸国が東アジア・東南アジアと同じような急速な経済成長を成し遂げることに成功すれば,やはり同じような問題に直面することになるだろう。‹1›

家計の資産形成と情報コスト

日本の家計の金融資産に占めるリスク資産の比率が,欧米,特に米国に比べてかなり低いことはよく知られており,アベノミクス後の好景気・株式市場の好況のもとでも基本的傾向に変化はない.退職後に向けた資産形成の観点から,日本の家計はより多くのリスク資産を保有するべきであると考えられることについても,少なくとも金融やファイナンス研究者の間では一定のコンセンサスが形成されていると思われる.しかし,金融機関が新しい個人向けの金融商品をラインアップしたところで,個人・家計が最初の(最後の?)一歩を踏み出さなければ,リスク資産投資も,老後を見据えた資産運用も増えることはない.
歴史的に見ると,税制や取引手数料の高さなどの制度的要因が,我が国における家計のリスク資産投資が少ないことの理由であったことは間違いない.その一方で欧米に関する最近の実証研究の蓄積においても,経済学が伝統的に分析の射程に含めていた要因だけで,家計のリスク資産投資の有無や金融資産に占める割合について説明するのは不可能であることが明らかになっている.新古典派的なファイナンス理論は,暗黙にうちに家計は何のコストもなしに金融投資に関する情報にアクセスでき,またそれを正しく理解し効率的に利用できることを仮定している.したがって,金融経済情報を理解・利用する能力に個人間格差は存在しないはずであるが,「金融リテラシー Financial Literacy」と呼ばれるこの種の能力は,現実には個々の家計によって大きく異なっている.このため 2000 年代以降,ファイナンス・金融の学術研究において,ハウスホールド・ファイナンス (Household Finance)と呼ばれる分野が重要な位置を占めるようになってきている18.これらの研究の焦点は個人・家計の意思決定における限定合理性とそれが金融経済行動に及ぼす影響であり,そのような分析を踏まえた制度・政策のあり方に関する提言である.この種のアプローチの背景には,社会科学の諸分野で 2000 年代以降に大きくクローズアップされるようになった,
「リバタリアン・パターナリズム Libertarian Paternalism」もしくは「ナッジ Nudge」と呼ばれる発想がある。‹1›

市場

1. はじめに
2001年9月の米中枢同時テロの犯人はなぜ大量殺戮を是としたのであろうか.狂信による
のか.地域社会の状況がそうさせたのか.
21世紀が戦争の年から始まってしまったのは残念である.今世紀は平和の世紀であってほ
しい.
本稿の課題はミクロ経済学の視点から経済主体と市場について考えることである.そこで
主に Henderson and Quandt1971 にもとづいて考えていく.

2. 需要と供給
市場で競争が働くためには次の 4 つの条件がある.
① 製品の質が同じで,買い手が一様である.
② 買い手と売り手の数が多い.
③ 買い手と売り手がすべて完全な情報をもっている.
④ 買い手も売り手も自由に市場に出入りできる.
ここでは買い手も売り手も製品の価格を与えられたものとみる.一般に製品の価格と取引される数量は需要と供給によって決まる.市場の需要は個々の消費者の需要の和である.個々の消費者の需要は効用最大化の条件から出てくる.市場の供給は個々の企業の供給の和である.個々の企業の供給は利益最大化の条件から出てくる.
需要と供給が等しくなるときに市場の均衡が成立する.このとき買い手と売り手の希望が一致している.生産要素の市場は製品の市場と同じように分析できる.生産要素に対する需要は個々の企業の利益最大化の条件から出てくる.労働力の供給は個々の労働者の効用最大化の条件から出てくる.生産要素の市場で均衡が成立するときには生産要素の価格がその限界生産物の価値と等しくなっている.
市場の均衡には次の 2 つの特別の場合がある.
① 価格がゼロで供給が需要を超過している状態(自由財の均衡)
② すべての生産量に対して供給価格が需要価格を超過している状態(生産量がゼロの均衡).
また市場において複数の均衡があることもある.
一般に均衡点があってもそれが実現されるとは限らない.撹乱が生じたときにもとの均衡へもどる運動が起こればその均衡は安定である.そうでないときには均衡は不安定である.静
学分析は撹乱が生じたときの調整の方向だけを考える.これに対して動学分析は調整プロセスの時間的な経路も考える.市場価格の時間的な経路が振動してクモの巣のような形をつく
り出すこともある.
3. ワルラスの法則
一般均衡分析はすべての商品について互いにちぐはぐのない価格の組を見出そうとする.交換経済では各個人は初めに様々の商品のある量をもっている.各個人は予算制約のもとで様々
の商品をそのときの市場価格で自由に売買する.各個人の予算制約はその人が売る様々の商品の総額がその人が買う様々の商品の総額に等しいという条件である.ここで超過需要とは
需要から供給を引いたものである.各個人の超過需要は効用最大化の条件から出てくる.各商品について経済全体の総超過需要は各個人の超過需要の和である.総超過需要量に価格を
かけて合計した和はいつもゼロである.このことは個人の予算制約から出てくるもので,ワルラスの法則と呼ばれる.ここで消費者の行動を決めるのは商品の交換比率である.一般均
衡が成立するためには各商品について超過需要がゼロに等しくなければならない. 一般均衡分析の第 2 の段階では生産が導入される.この段階では消費者の当初の保有量は様々の生産要素からなる.ここで消費者は様々の製品を購入するために自分の持っている生産要素を企業に売る.出資者である消費者は企業から配当を得ることもある.生産要素と製品に対する企業の超過需要は利益最大化の条件から出てくる.生産要素と製品の総超過需要は個々の消費者と企業の超過需要の和である.ここで均衡の条件はすべての市場で需要と供給が等しくなることである.このとき代表的な企業の利益がゼロになってしまう.現実にはこのような企業のゼロ成長の状態は成熟・衰退産業でみられる.
商品の間の交換比率は貨幣に対する交換比率から求めることができる.一般均衡体系に解が存在することは不動点定理によって証明される.また一般均衡の安定性や一義性も分析されている.
4. 企業と産業
独占企業はそれ自身が 1 つの産業であり,身近な競争相手との競争がない.独占企業は右下がりの自社製品の需要曲線上ですきな所を自由に選択できる.独占企業が生産量を増加さ
せるとその製品の価格が低下する.それで独占企業の限界収益はそのときの価格よりも小さい.ところで企業の利益最大化の 1 階の条件は限界収益と限界コストが等しいという条件で
ある.2 階の条件は限界コストの増加率が限界収益の増加率よりも大きいという条件である.生産要素について考えると企業は各生産要素の限界収益生産物をその生産要素の価格に等しくすることで利益を最大にできる.
価格差別を行う独占企業はその分断された市場のそれぞれの限界収益と全社を通じての限界コストを等しくして利益を最大にする.消費者を完全に差別できる独占企業は消費者余剰のすべてを獲得する.2つ以上の工場を持つ独占企業は自社の各工場の限界コストと自社の製品市場の限界収益を等しくして利益を最大にする.外形標準課税と法人利益税はどちらも利益を最大にしようとする独占企業の行動に影響を与えない.また,消費税が課されると独占企業の生産量は減少し,その価格は上昇する.複占企業や寡占企業の利益は競争相手の企業の行動と反応に大きく依存する.企業の行動に関する様々の仮説に基づいて様々のモデルがある.各企業が自社の行動は競争相手の行動に影響を与えないと仮定して利益を最大にするときにはCournotの解が成立する.各企業が産業全体の利益を最大にするために共同するときには共謀の解が成立する.各企業がリーダーか追っかけの役割を演じようとするときにはStackelbergの解が成立する.ある企業がその競争相手の行動に対して産業全体に占める自社の売上の比率を維持するように行動するときには市場占有率の解が成立する.ある企業が価格を引き下げると競争相手も価格を引き下げ,価格を引き上げると競争相手は価格を変えないとみるときには屈折需要曲線の解が成立する.
独占的競争では個々の企業の製品は他社の製品とは区別され,その需要曲線は右下がりである.このとき個々の企業の生産量は市場全体の中の小さい部分であるので個々の企業の行動は競争相手に影響を与えない.しかし,多くの企業が同時に同じような行動をとるときには個々の企業は影響を受ける.独占的競争では産業内の企業の数は増えたり減ったりする.
買い手独占の企業はその生産要素について右上がりの供給曲線に直面する.買い手独占の企業が生産要素の量を拡大するためにはその価格を引き上げなければならない.それで買い
手独占企業の生産要素の限界コストはそのときの生産要素の価格よりも大きい.利益最大化の 1 階の条件より買い手独占の企業は生産要素の限界生産物の価値と生産要素の限界コスト
が等しくなるところまで生産要素の量を拡大する.

買い手複占や買い手寡占の分析は売り手複占や売り手寡占の分析に似ている.取引される製品が差別化されていない場合の売り手複占や売り手寡占のモデルは適当に修正して買い手
複占や買い手寡占の場合に適用できる.
双方独占では売り手も買い手も 1 つの経済主体である.このとき取引される製品の価格と数量は一方の経済主体が支配的に決めるか,または両者の交渉で決まる.
5. 公共経済学
ミクロ経済学の目的は選択の対象である資源配分に対してどの状態がその社会にとって望ましいのかを評価することである.このとき 1 つの価値判断として,どの人の状態も悪くし
ないで少なくとも 1 人の状態を改善する再分配を社会全体の改善と見ることができる.誰かの状態を悪くしないと資源の再分配ができないときにはそのときの配分をパレート最適であ
るという.パレート最適であるためには次の 3 つの条件がある.
① 2 つの製品について各消費者の商品代替率と各企業の製品変換率がすべて等しい.
② 2 つの生産要素についても①と同様である.
③ 生産要素と製品のすべてのペアについて各消費者の商品代替率と各企業の限界生産性がすべて等しい.
市場で競争が働くとふつうはパレート最適のための条件が成立する.しかし,市場での完全競争は所得の分配が最適であることを保証しない.所得分配についてはなんらかの倫理的
な判断が必要である.
市場での競争が不完全であるときにはふつうはパレート最適のための条件が成立しない.ただし取引相手に応じて完全に価格を差別する独占の場合と双方独占の場合はパレート最適の資源配分が実現される.
ところで市場での取引に外部効果が存在することもある.外部効果とは売り手と買い手の取引の範囲を超えてその取引の効果があることである.外部効果が存在するときには市場で
の完全競争はパレート最適を実現しない.生産に外部効果が存在するときにはパレート最適のためにはその製品の価格と社会的な限界コストが等しくなければならない.
政府ないし地方自治体は税と補助金によって外部効果があるときの市場での取引をパレート最適の配分に近づけることができる.
6. 労働問題
かつてのミクロ経済学は労働力を他の生産要素と同様に扱い,賃金は市場で決まり,労働移動が頻繁に起こるとみていた.しかし,これらのことは労働力市場の一部にしかあてはま
らない.社内における専門技能の形成が重要である場合や転職のコストが大きい場合には賃金は市場で決まるとはいえない.このときには次の 4 つのことが企業にとって重要である.
① 有能な人材をその企業に引きつけ,保持する.
② 従業員の技能を開発する.
③ 従業員にやる気を持たせる.
④ 従業員を事業のリスクから守る.
雇用関係は複雑であり,雇用契約は完全なものではない.なされるべき仕事の詳細は意思決
定の権限をもつ経営者が決める.
また,経営者は出資者であることが多い.この理由として次の 2 つのことがある.
① 企業の物的資源は流用されやすいのでこれを点検する必要がある.
② 経営者の意思決定は企業の評価を左右する重要な職務である.
労使の間でどのように事業のリスクを共有すべきかまた共有してきたのかは本人と代理人のモデル(agency model)によって分析されてきた.義理人情を大切にする企業はその人的資
源に対して次の 3 つの方針をもつ.
① 賃金を下げず,維持するか次第に上げる.
② 勤続年数の長い従業員を厚遇する.
③ 年長の従業員を厚遇する.
企業の採用活動はその企業が現在および将来必要とする労働力の需要によって決まる.
賃金,職責,昇進機会などの職務設計がその企業に応募する労働力の量と質に影響を与える.
いったん労働者が採用されると人事問題は有能な人材を企業に引きとめ,無能な人材をやめ
させることになる.‹2›

企業

企業の経済理論
現代経済学の中核をなすミクロ理論[例えばヘンダーソン&クオント(1975)]では,周知のように企業なるものを概略以下の如きものと取り扱っている。すなわち企業は,利潤最大化を目指す所有経営者にほかならず,その行動は,完全競争状態にある市場からの衝撃に対し,完全な合理性をもって瞬時に生産量調節を行ない適応する,というものである。

このような視点からみれば,企業の経済理論における企業モデルは,収益から費用を引いた差額としての利潤を,生産量の関数として具体的に特定するならば,あとはその数学的な問題を解くこと以外,企業について研究すべきものは,殆んど何も残らない。これが要するに企業の経済理論のエッセンスである。このような説明の背後に,もし自由に取引できる市場
があるならば,能力のない人は財を売りまた能力がある人は財を買い取るので,市場取引によって能力のある人に財が配分され,結果として財は効率的に利用されることになる,という想定がある。そしてこの「市場」を唯一の効率的資源配分のメカニズムとして説明するため,上述したような単純化された企業モデルが仮定されたのである。
しかしこのような単純化は,経済学の分野では説得的であるとしても,市場をではなく企業を研究対象とする経営学にとっては,あまりにも行き過ぎであるという批判は,永年にわたって行なわれてきたし,また経済学そのものの中からも行なわれていた。〔内部からの現代経済学主流派に対する全般的な反省の声は, Paul Samuelson 等4人のノーべル経済学賞受賞者を含む,44人の著名経済学者が署名したアピール文書「A Plea for aPluralistic and Rigorous Economics」(American Ecmic Review, May 1992)に示されている。〕以下に展望する各企業理論は,このような事情を踏まえつつ,現実の世界の変化に対応しながら新たに提起された,より現実反映的な企業へのアプローチにほかならない。ところでそれならば企業の経済学モデルは,無意昧なのであろうか。すべてがそうであるとはいえないことは,勿論である。なぜなら,現実に経済学が想定している状況,例えば市場における完全競争や人間の全知的合理性といった条件が満たされている状況が見出されるならば,そのモデルは正当なものとして受容されうるであろうからである。またさらにここで指摘すべきは,企業の経営モデルは,企業の経済モデルヘの批判の上に,より現実適合的な新理論をつくることになったからである。新古典派経済学の企業理論は,それ以降の代替的な諸理論をひきだすいわば契機を与えたわけである。
それでは企業の経済理論は,どのような仮定の上に構成され,またそれらの仮定を,企業の経営理論はどのように置き代えるべきだというのであろうか。すでに周知の事柄とはいえ,ここで典型的な諸側面をとりあげ,後の議論のための論点整理をしておくことにしたい。 まず企業の経済理論が,いわば前提として仮定している内容は,次の諸点である[Clelland, S. (1961)], (i)定常性の仮定:願望,資源,知識の集積などについて,これらを所与あるいは不変なものと想定している。
(ii)独立性の仮定:願望,資源,知識の集積などは,相互の間でもまたその企業自体の行動からも,独立している。
(iii)動機上の仮定:企業の目的・目標は,利益の最大化である。
(iv)情報に関する仮定:企業活動に際しては,技術,人間関係,市場等に関する情報が不可欠であるが,これらの情報の収集・伝達にあたり,完備された情報システムが存在する。
(V)組織上の仮定:組織成員の思考や行動を,企業目的の最大化に向け相互に関係づける,そういった意思決定過程や行為過程が,企業内に存在する。これらに対する代替案として企業の経営理論が提示している諸仮定は,以下の通りである。
(イ)動機上の仮定:企業の目的は最大化ではなく,満足化あるいはミニマックス化である。
(ロ)情報に関する仮定:企業の情報システムは,通常,十分に整備されているものではなく,情報に歪みや雑音が混入している。また企業に必要な情報の収集・伝達は,内部的に問題解決されなければならない。
(ハ)組織上の仮定:意思決定過程はその企業の組織構造によって決められ,それがまた情報システムのあり方をきめる。
(ニ)成長の仮定:願望,資源,技術水準,知識の集積などは,変化しうるものでありまた変化している。
(ホ)影響の仮定:願望,資源,技術,知識の集積などは,互いに無間係であるわけではなく,またその企業自体の行動からも影響を受ける。
このようにして,企業の経済理論の後に登場してくるそれへの代替的諸モデルは,その依って立つ前提的な仮説を変化させたが,そのような変化は,いうまでもなく激しく変わる現実の経済・経営社会の姿を反映したものである。以下にみるⅢからVIIまでの諸理論は,要するに上述した新たな仮定のもとに,構想されたものにほかならない。

Ⅱ 企業の契約理論
ここで企業の「契約」理論という言葉で包括する学説の内容は,いわゆる「新制度派経済学」ともいわれ,また「組織の経済学」とも称されるものである。経済学の領域ですでに上記のような各称が用いられしかもかなり普及しているにもかかわらず,本稿でこのようによぶのは,1つは「企業」に限定したトピックスをとりあげる(そのため,「企業の~理論」という形に表現を統一した)からであり,また2つには,本節で取り上げる3つのサブセオリーをひとまとめにした場合,しばしば「契約」理論という表現が使われる(例えば, G. M. Hodgson, 1999,p.249)からである。
さて,この企業の契約理論に含まれる主要な下位理論は,よく知られているように,次の3つである。 Alchian, A. A. & H. Demsetz (1972),Jensen,M. C.&W. H. Meckling(1976),Williamson, O. E. (1975)。これら3者はいずれも,新古典派的な経済学の考え方に,修正を迫る内容をもつ点で共通している。
まず企業の経済理論は,「制度」を与件とし,また完全合理性や完全情報を前提にしながら,経済資源の配分上の効率を問題にしてきた。これ対し本節の企業の契約理論は,制度を与件とするのではなく,むしろ制度の発生や変化を問題にしている。また企業の契約理論は,方法論的個人主義の立場をとり,かつ経済合理性を前提にしている点で,企業の経済理論と共通するところがあるが,しかしその合理性には限界があることや情報にも不完全性があるという,より現実的な仮定を導入することで企業の経済理論よりいわば現実に近い理論内容を提示している。
はじめにDemsetzらのいわゆる所有権理論についてみてみよう。かれらによれば人々が市場で取引しているものは,モノそれ自体ではなく所有権であるという。もし人間が完全に合理的であるならば,すべての財の特性をめぐる所有権は明確に誰かに帰属され,財の使用によって生ずるプラス・マイナスの効果は,その所有権者に帰属する。かくして,市場取引において資源が効果的に配分されるためには,所有制度の確立が前提条件となる。しかし実際には,人間の合理性には限界があるので,すべての財の所有権が必ずしも明確に誰かに帰属するわけではない。そのため,財の使用によって発生するマイナスの効果が,誰にも帰属されず,財は無責任に非効率的に利用され続ける可能性がある。このような非効率を抑えるべく,
所有権を明確にするさまざまな制度が形成される。以上が所有権理論の主張である。所有権理論では,企業は,財を効果的に配分するため,財の所有権を特定の人に集中させたり,分散させたりする制度とみなされる。例えば中小企業は,資源を効率的に利用するため所有経営者に集中させる制度であり,株式会社は,資源を効率的に利用するため,逆に所有者を分散させる制度である。
つぎにWilliamsonの展開する,いわゆる取引コスト理論についてみてみよう。彼によれば,企業にみられる階層組織は,限定合理性と機会主義という2つの契機から生ずる,市場に代わるもう1つの資源配分のシステムであるという。すなわち市場取引を行う場合,限定合理的な人間は相手の不備につけこんで機会主義的に自分に有利に取引を進めようとするので,相互に駆け引きが起こり,いわゆる「取引コスト」が発生する。この取引コストがあまりにも高い場合,それを節約するために「市場」に代え,「権限」にしたがって資源配分する。つまりこの場合,資源配分の制度として市場よりも組織が選択される。これがWilliamsonの主張である。ただし,この取引コストは組織内にも発生する。何故なら組織が巨大化すると,管理者の合理性は制約されているのでその不備につけこんで組織成員が機会主義的にさぼりだすからである。この場合の取引コストを節約し,メンバーの悪しき行動を制御するため,機能部門制組織,事業部制組織,コングロマリットなど多様な組織形態が展開されることになる。Jensen等の,いわゆる「エイジェンシー理論」についてみてみよう。
かれらによれば企業は,経営者を中心とする複数のエイジェンシー関係から成る契約の束(nexus)にほかならない。なかでも重要なエイジェンシー関係は,株主と専門経営者のそれである。ところですべての人間は,制約された合理性のもと自己にとっての効用を最大化しようとするので,プリンシパルである株主とエイジェントである経営者との利害は必ずしも一致しない。しかも両者の情報は非対称的であるため,経営者は株主の不備につけこんで非効率的に行動する可能性が常に存在する。それならば何故巨大企業の専門経営者は,必ずしもそのような非効率な行動をとらないのであろうか。それは経営者の悪しき行動を抑制するため,事前に取締役会制度,会計監査制度,報酬制度,資本市場制度などさまざまな統治制度が形成されているからであるという。これがエイジェンシー理論の主張である。この理論は,所有と経営の分離が進んだ近代株式会社における株主と経営者とのガバナンス関係を考える上で,大きな示唆を与えるものである。
以上,本稿で「企業の契約理論」とも称すべき学説を一瞥してきた。ここでの理論は,いわゆる新古典派経済学の内容と異なるもの(例えば「完全合理性」に代えて「限定合理性」を重視するなど)があるとはいえ,経済主体の中心を個人レべルにおき,それら個々人が各自の保有する資源を市場で交換するという考え方を基本としている。こころみにエイジェンシーの理論をとりあげてみれば,経済現象の多くは,たとえば経営者を依頼人とし従業員を代理人とする,交渉契約にもとずく市場取引によって説明される。たしかに,そこでは契約条件は契約当事者の情報へのアクセスにより,また交渉のコストにより,さらには策略を弄し得る機会等によって左右されることは,これを認めてはいるのであるが。したがってこれらの諸学説
は,文字通り組織の経済学あるいは新制度派経済学であって,経営学や組織論のカテゴリーに入るものではない。経営学や組織論の立場は, dyadを基礎とする社会関係への決定的な重視にあるからである。‹3›

一般均衡分析

ワルラシアンのミクロ経済学衽衲一般均衡モデルの発展的理解。

現在のミクロ経済学の教科書の多くは,ゲーム理論以外のいわゆる価格理論に関する部分については,次のような構成になっている。まず,消費者理論(効用最大化問題)と生産者理論(利潤最大化問題・費用最小化問題)という主体均衡論が解説される。次に,個別市場の需給均衡に着目し,その個別市場で価格と取引数量が決定される部分均衡論が解説される。そして,最後に,社会全体の相互依存関係が考慮され,すべての価格と取引数量が同時決定される一般均衡論が解説される。これに対して,三土氏は最終的な体系である一般均衡論を常に念頭に置きながら,主体均衡論と部分均衡論を叙述するというスタイルをこの前著で採用しており,これがタイトルにおいて「ワルラシアンの」と形容されている理由であり,本書の特徴をなしているのである。換言すれば,三土氏は,教科書として「一般均衡論的に考える」ことの重要性を強く訴えているわけである。
具体的にはこの前著の構成は以下のようになっている。まず第 1 部では,「一般均衡モデルの基礎」として純粋交換経済モデルを提示し,次に,第 2 部では,「生産関数と効用関数」としてミクロ経済学の道具立てを詳述している。この第2部は,経済学において具体的な関数型として頻繁に用いられるコブ=ダグラス型,CES 型,レオンチェフ型,CRRA 型の生産関数および効用関数について,その相互の関係性や特徴に関してストーリー性を持って詳述されており,そのおかげで,頭の中を整理しておくためにも非常に役立ち,研究者にとっても極めて有用である。さて,最後に第3部では,「生産を含む一般均衡モデルの基礎」として,主に1財2要素(労働と土地で消費財を生産するモデル)の一般均衡モデルを詳述しており,この部分がこの前著の核心をなしている。そして,この第3部の最終章である第19章では,ここまでの内容をより一般化すべく,2財2要素モデルへの拡張・再定式化が行われているが,この2財2要素モデルの経済学的含意をより明確にし,その応用多能性を示すために,続編として本書『続・ワルラシアンのミクロ経済学』が執筆されたわけである。
2 本書の構成と内容
まず,最初に述べておきたいことは,三土氏は前著・本書において,ワルラスにならって一般均衡論を念頭に置きながらミクロ経済学の教科書を著すということを目的とし,その目的を果たされているわけであるが,そういう内容上の目的とはまた別に,その表現方法に関しても大きな特徴を有している。すなわち,文章の記述が極めて詳細・丁寧であって,そのときにはくどいほど丁寧な文章が,数式,図,そして学説史と有機的に結びついているということである。ある論理・理論を文章で理解し,数式で理解し,図で理解し,そしてそれを学説史という歴史性の中で理解することが可能な教科書なのである。これは,三土氏が,三土[1993]や三土[1996]において経済学史と経済数学の教科書を執筆されていることからも分かることであるが,三土氏のこういったバーサタイルさには強い感銘を受けるところである。さて,本書は3部構成であり,その具体的内容は以下のようになっている。ここでは,各章の内容を紹介しながら,場合によっては若干の私見を述べたい。
亜第 1 部:「2 財 2 要素モデルの真意をさぐる」 第1章では,前著の第3部で展開された1財2要素モデルの再確認が行われ,「出資型モデル」と「無利潤モデル」の対応・同値関係が説明される。資源配分という意味では両者は本質的に同じであるが,特に「利潤」についての解釈を異にするこの2つのモデルの解釈上の相違を理解することが,後に重要となるのである。
第2・3章では,本書の中心的モデルである2財2要素モデルへの拡張が行われ,本書全体での議論のための基礎モデルが提示される。2要素は基本的には労働と土地と解釈される。2財2要素モデルは,より一般的な n 財 m 要素モデル,すなわち,生産される財が複数であり,それらの生産に必要な生産要素数も複数であるモデルのもっともシンプルな形式であり,教科書としての本書としては,2財2要素が最高度に単純化されたモデルだからである。また,これも本書の特徴であるが非常に洗練された図を用いて図解していくためには,2財2要素以上に次元数を上げることはできないからでもある。
第 4 章では,産業部門別に生産要素の一方である土地の投入が固定されているモデルが示される。これは,労働は企業が可変的にその投入量を調整できる一方で,土地は簡単には投入量を調整できないという側面を表現するためであり,また,この相違を認識することが,第5・6・7章で議論される短期均衡と長期均衡の相違,広義利潤と狭義利潤の相違,そしてワルラスの言う「利潤は 0 」ということの意味を理解する上で重要となってくるからである。第5章では,短期的に変更できる費用が可変費用であり,短期的には変更できない費用が固定費用であるという定義の下,それらとの関係で広義利潤と狭義利潤(超過利潤)の概念が詳述される。第6章では,長期均衡を描写する際に1次同次生産関数を前提としており,長期平均費用曲線(この場合,長期限界費用曲線も同一となる)が競争市場で水平になることが示される。そして,長期限界費用曲線=長期平均費用曲線は供給曲線でもあるので,長期においては,超過利潤は 0となる。このことを理解してはじめて,ワルラス型一般均衡モデルの方程式体系に組み込まれる価格費用均等式の意味が理解されるのである。多くのミクロ経済学の教科書では,S 字型生産関数を仮定して,短期均衡と長期均衡を説明していることと対比すれば,これは本書の特徴である。そして,マクロ経済学を始めとしてミクロ経済学の具体的応用においては1次同次生産関数が仮定されることが多いことを鑑みれば,本書の方法は極めてまっとうなものである。
ワルラスの一般均衡は長期的に成立する状態であると解釈されるべきであり,そうであるとすれば,そこへ至る道として想定されるべき調整過程はマーシャル的数量調整過程であることが示される。また,これと関連して,ワルラス的調整とマーシャル的調整の背後で想定されている調整過程モデルの相違,すなわち,その時間幅や取引のされ方についての記述などは,わかっているようで明確には意識できていなかったことを自覚させてくれる。「ワルラス=価格調整」,「マーシャル=数量調整」という単純な図式は,ワルラスやマーシャルの真意の理解を妨げてしまうのである。それでは,短期と長期の概念的区別を理解したとして,その移行をどうモデル化すればよいか。第 7 章で,これへの回答として,土地といった生産要素には一種の「慣性」が存在し,故に瞬時には動かせないと考えられるので,この点を「能率関数」という概念装置でモデル化する方法が解説される。
第8章では,古典派経済学の費用価値説と新古典派経済学の効用価値説の統一的解釈が述べられる。
スミスは自然価格と市場価格を概念的に区別し,市場の需給で決まる市場価格は長期的には生産費用で規定される自然価格へ引き寄せられると論じたが,第 6章で議論されたように,長期平均費用曲線は長期供給曲線でもある。一方,需要曲線は,家計側の効用最大化で決まる。従って,自然価格もまた長期での需給によって支配されているのであり,一般均衡論として考察することによって初めてこのことが理解されるのである。
ただし,ここで注意しなければならないのは,長期均衡値を決定するのは,生産関数という技術的知識,個々人のもつ効用関数,生産要素の賦存量だけではなく,生産要素がどのように保有されているか,言い方を変えれば,所有権の社会的分布もまた重要な決定要因であることである。この点は,本書で行われるように2財2要素モデルを考察することによって明確に理解されるのである。このことに関連して,第9章では,限界生産力説について論じられる。一般均衡モデルにおける「生産要素への報酬率=その生産要素の限界生産力」という命題を,「競争均衡はパレート効率性を満たす」という命題を通じて,「要素価格=限界生産力となることは自然法則に適う正当なものである」と解釈することの短絡が指摘される。限界生産力自体が,所有権の社会的分布に依存して変化するのであり,所有権の社会的分布が変化すれば,均衡における資源配分と所得分配は全く別のものとなるのである。
第2部:「一般均衡モデルの数値解析」 第2部では,第1部で定式化された2財2要素モデルの数値解析の方法が示される。まず,第 10 章において,現実的な関数型とコーナー解(端点解)を避けるために便宜的に導入するコーナー回避関数を設定した上で,解かれるべき方程式体系が示される。次に,第 11 章では,実際に数値解を計算するためのアルゴリズムであるニュートン法および対数ニュートン法が解説される。第12章では,パラメータに具体的数値を与えて数値解を求めた実例が示される。本章は,数値例というだけではなく,その内容・解釈が極めて重要な三土氏の研究業績でもあるため,次節で改めて評したい。第13章では,第7章で提案された能率関数を組み込むことによって,短期均衡から長期均衡への調整過程を数値的に求める方法が示される。
第3部:「一般均衡モデルの応用と発展」 第3部では,第1部では言及されなかった諸点について,トピックス的に取り上げられる。第3部は各章をそれぞれ独立して読むことができるが,それぞれがミクロ経済学あるいはその応用としてのマクロ経済学にとって重要な論点である。第14章では,生産関数をレオンチェフ型に修正した場合の固定投入係数モデルが取り上げられる。この場合,最適解は基本的には端点解になるわけであるが,その解法としての線形計画法が解説される。
第15章では,国際貿易理論への応用が考察される。
ここで初めて,本書の中で生産要素として「資本」が考察されることになる。これまで,生産要素として「土地」を想定してきたのは,ワルラスの生産を含む一般均衡理論は,再生産不可能な本源的生産要素だけを考慮した静学的な長期均衡理論だからであり,資本を分析に含めると,どうしてもその「蓄積」を動学的に考察しなければならなくなるからである。しかし,国際経済に当てはめて考える場合には,国際間の資本ストック格差は少々の投資では埋められないため,再生産不可能な土地に準じて資本を考察できるのである。本章の主要な帰結として,要素価格均等化定理が成立する不完全特化はあまり現実性を持たず,完全特化される財と不完全特化となる財が共に存在するような(従って経済全体としては不完全特化である)ケースを3財2要素の固定係数モデルで示し,このようなケースが現実妥当性を持つことを述べている。
3 第12章の「羊が人間を食う」モデルについて
本章では,2 財 2 要素モデルによって,「土地」の初期配分が不平等化するにつれ,土地を持つものと持たざる者の間で,その消費にも大きな格差が生じていくことが示されている。このような格差を「搾取」として解することが可能であり,限界生産力によって要素価格と所得分配が規定される一般均衡論の中においても,「搾取」の存在する経済像を表現できるのである。このような搾取の定義は,分析的マルクス主義とも通ずるものである。ワルラスの一般均衡モデルを「資本主義市場経済の調和性を強調・擁護するだけの非歴史的で矮小化された理論」と解釈することは誤解であることを三土氏は主張されるのである。評者もこの点には全く同意するものであり,実際に,山下・大西[2002],大西[2012]や金江[2013]等では,動学的一般均衡モデルの中に「搾取」を位置付けている。第12章について,少し要望をいうとすれば,表12-3では,労働と土地のうち,第1・2財それぞれに投入される割合を示すべきではないか。
これを示した方が土地所有の不平等化に伴って資源配分が歪んでいく様がより理解されると思われる。
‹4›

不確実性

 「リスク」について
 企業経営を巡るリスク
 金融危機と金融リスク管理
 政策とリスク管理
 おわりに
 (注)リスクについては、心理学的、社会学的、生物学的、工学的、医学的、法学的など様々なアプローチが試みられている。著書「リスク、不確実性、そして想定外」では、あえて言えばファイナンスならびに経済学的なアプローチをメインとしている。
 失敗については、「失敗学」(畑村洋太郎博士)や様々な組織論からの研究がある(例えば、「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」)。

動機
金融機関の経営やリスク管理に関する仕事に従事した経験 →プロがどうしてリスクに気づかなかったのかとい
う疑問。日常の世界でもしばしば経験。
とくにサブプライム問題以降の金融危機→「ブラック・スワン」は存在した。
「今回は違う」(This time is different) VS「これはいつか来た道」(We have been herebefore)→失敗は繰り返される。
なぜリスク管理は失敗するのか →「リスク」は嫌われる存在? リスク管理は特別な仕事?
今の社会は「滅多に起きないが起きたら影響が極めて大きい」事象にとらわれ過ぎている可能性(例:首都直下地震) →もっと日常のリスクにも目を向ける必要。
リスク管理は社会全体そして一人一人の仕事

リスクの時代
 1986年にドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが指摘した「リスク社会」。「近代産業社会が様々なリスクを生み出し、我々の生命と社会関係をむしばむ時代を迎えた」 (邦訳「危険社会」1998)。
 バブル崩壊後の「失われた10年」「大企業・大銀行の破綻、合併」 「株安・地価下落」「貸し渋り・貸しはがし」「デフレ」「就職氷河期」「非正規雇用」
 「安全、安心」を脅かす事件や事故「乳製品食中毒事件」「牛肉偽装事件」「その他食品偽装事件」「脱線事故」「耐震強度偽装事件」「大規模システム障害」「SARS」「鳥インフルエンザ」「汚染米転売事件」「消えた年金」「臨界事故、原発データ改ざん事件」
 リーマンショック
 3.11「想定外」の地震や津波、原発安全神話の崩壊、テール・リスク

3.11とその後の出来事
• 東日本大震災、福島第一原発事故
• サプライチェーンの寸断
• 夏の電力不足
• 大型台風による記録的大雨
• タイの大洪水
• 欧州信用不安
• 超円高
• オリンパス社による巨額損失隠し発覚
• 裏日本、北日本の豪雪
• エルピーダメモリ破綻
• AIJ投資顧問による企業年金消失問題
• 最近の出来事(自動車暴走事故、関越道高速バス事故、北アルプスでの遭難、竜巻、福山のホテル火災、新潟のトンネル事故)

リスクの源の例
• うっかり ~ジェイコム株誤発注事件
• 慣れ ~広島刑務所、コスタ・コンコルディア号難破
• 記憶の風化 ~三陸沿岸の津波被害
• 油断 ~シーザー暗殺、本能寺の変、オイル・ショック
• 他人任せ ~システム障害、AIJ投資顧問問題
• 二兎を追う ~ミッドウェイ海戦、某男優
• ロスカット(損切り)に対する心理的抵抗(=もったいないという感覚) ~ネット詐欺、山での遭難事故
• 問題先送り ~江戸幕府の鎖国政策、現代日本の財政赤字、厚生年金基金制度、地球環境問題
• ハーディング(横並び) ~日本の銀行、ドットコム・バブル
• 安全神話 ~タイタニック号、原発、日本国債
• リスク管理手法 ~VaRショック、ベーシス・リスク、CDS
• ヒューリスティクス(「近道選び」・・代表性、利用可能性、 係留) ~日常生活での様々な場面

概念
 リスク ~ 「危険」「損害や損失が発生する可能性」(各種辞典)
ピーター・バーンスタイン「リスクー神々への反逆」原著1996「現在と過去との一線を画する画期的なアイデアはリスクの考え方」 「リスク概念の数学的核心をなす確率論の発展」「リスクマネジメント上の変革によって、人類は経済成長や生活の質的向上、あるいは技術革新を追求するよう動機づけられていった」
Cf. 工学系のリスク評価= 「被害度」(Severity) × 「発生確率」(Probability)
 不確実性 ~ フランク・ナイト(1883~1946)の定義
測定可能な不確実性=リスク
測定不可能な不確実性=「真の不確実性」=「ナイト流の不確実性」
不確実性下で意志決定する企業家への対価=利潤(「リスク、不確実性および利潤」1921)
 想定外 ~ 畑村洋太郎著「『想定外』を想定せよ」
「人間は、何かものを考えようとする時に、これについて考えるという領域を決める。この領域を区切る境界を作ることが想定だ。プロジェクトでは、各自が勝手に境界線を引くわけではなく、皆が納得するように、制約条件の仮定をおく。すなわち、様々な制約条件を加味した上で境界を設定することが、想定だ。したがって、その範囲を超えた領域である『想定外』は起 こりえないのではなく、確率は低いかもしれないが、起こる可能性はある」

「想定外」の事態に対する理解
 「黒い白鳥~まずあり得ない事象」の存在
ナシーム・タレブの著書「ブラック・スワン」原著2007
「予測できないこと、非常に強い衝撃を与えること、そして事後的には予想が可能であったように語られること」
「宗教の台頭から私たちの日常生活まで、ほとんどすべての背後には黒い白鳥が潜んでいる」

 複雑系の科学
「一つ一つ無関係にあるいは一定の法則で動いているものが、相互に影響しあうことによって、全体として大きな動きになる、あるいは大きな様相を呈する」現象を扱う分野
関連語彙:カオス、ゆらぎ、非線形科学、自己組織化、
ニューラルネットワーク、フラクタル、べき乗則
小説・映画やTVの世界:「ジュラシック・パーク」(カオス)
「JIN-仁-」(バタフライ効果)
フラクタル(=自己相似系の無限連鎖)

企業経営はリスクの固まり
• 元来、「会社組織」はリスク・シェアリングのため(16~17世紀の 大航海時代)
• 通常の、売り上げや利益の増減のみがリスクではない。
とくに最近では、
• とどまることのないグローバリゼーション
• IT分野での技術革新(→ITリスク例えばシステム障害や情報セキュ リティ)
• 企業に対する社会的要請の高まり(例えば、安全性、環境への配慮、コンプライアンス)
• 制御不能になりつつある金融市場からの影響
• 自然災害の脅威(危機管理や業務継続計画の必要性)等々多様化、複雑化、巨大化。そうした中で、
• 取締役のリスクマネジメント義務の法制化(2006年施行の新会社法)

オリンパス事件の衝撃
• 国際的に有名な1部上場の大企業
• 経営トップを含む複数の幹部の関与
• 長期間にわたる問題の隠ぺい
• きっかけが「財テク」の失敗
• 「飛ばし」という古典的手口
• その後の穴埋めにM&Aを利用
• 外国人社長の就任による発覚
• 取締役会での突然の社長解任
• コーポレートガバナンスの重要な要素(監査役、社外取締役、監査法人)の信頼性に疑問符

コンプライアンスの本質
狭義「法令遵守」ではない。
~ 業界や社内ルール、ときに「倫理」「モラル」も。
組織の「品格」を高める行為
ひとりひとりの「自覚」に依存するところ大。
求められるレベルには「違い」がある。
~ 大企業、上場会社、業界のリーディングカンパニー、経済団体の役員企業、老舗、公益的な事業等はより高いレベルのものが、明示的に、また暗黙裡に求められる。
さらに、役員 or 従業員、単独 or 複数もしくは「組織ぐるみ」かも重大性に影響。
いわば ‟noblesse oblige”

AIJ投資顧問問題が示した課題
「厚生年金基金」の制度疲労
― 確定給付、公的年金代行、退出の難しさ
基金や資産運用業を巡るガバナンス
― 検査監督、相互牽制体制、資産運用規制
委託先管理の重要性
― 「他人任せ」のリスク
「一発逆転」「起死回生」の危険性
― 行動経済学のプロスペクト理論
基礎的な金融知識やリスク感覚の不足
― 金融教育やリスク教育の重要性

リコール問題の教訓(2010年3月8日付日経新聞)
「トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の副社長を務めた大野耐一氏の著書『トヨタ生産方式』 トヨタ方式の生みの親によるこの本のなかで、具体的な実践内容の章の最初に出てくるのが、『なぜ』を5回繰り返すという話だ。なぜ機械は止まったのか。負荷がかかりすぎたのなら、それはなぜか。軸受けの動きがなめらかでなかったというなら、なぜなのか。5回、なぜと問うことで原因を掘り下げ、ある部品がすり減るのを防ぐ『カイゼン』で問題を解決する例が出ている。『原因』の向こう側に『真因』が隠れている、と大野氏はいっている。」
「今回の大量リコールの発端になったフロアマットの問題は、こうしたトヨタ方式の基本動作が徹底していたなら、おそらく大きく広がることはなかった」 (水野裕司編集委員)
「トムラウシ山の遭難はなぜ起きたのか」(羽根田治ほか著、山と渓谷社)
「その後の長丁場と当時の天候を考えたら、稜線に出るまでの間に、引き返すかエスケートルートに回るかの決断を下すべきであった」
「もし引き返すという決断をするなら、結果論だが、天沼かロックガーデンの登り口辺りだろう。あるいはもっと手前のヒサゴ沼分岐で、主稜線に上がった段階でそうするのが現実的だろう。しかし、そこで、「ルートを変えて下山します」と言えるほどの確証がなかった。それと、やはり前日に低気圧が通過して、この日は離れていくだろうという予報
だった。それが、逆にあそこまで風が強くなってしまうというのは、全く予想外、想定外だった」
「3人のガイド同志は全く面識がなかったそうだ」
「本来なら3人の意思疎通を図るべき重要地点で、それがなされていたかどうかは非常に疑わしい」
「計画の変更に伴う割増金の発生やキャンセル料の支払いは、ツァー会社としてはできるだけ避けたいところで、なるべくだったら計画どおり登山を遂行したいと考えている。そうした指示が具体的になされていたのか、あるいは暗黙の了解なのかはわからないが、最終的な判断を下すことになる現場スタッフ(添乗員やガイド)にとって大きなプレッシャーになっていることは想像に難くない」
トムラウシ山の遭難はなぜ起きたのか(羽根田治ほか著、山と渓谷社)
「ガイドの判断ミスが引き起こされるそもそもの根底には、山のリスクに対するツァー会社の無理解があるといっても過言ではないだろう」
「とりわけトムラウシ山では、2002年に今回の事故とそっくりな遭難事故が起きている」
「山を案内する仕事に携わる者であれば、少なくともその山ではどんなリスクが想定され、過去にどのような事故が起きているかを調べるのは常識だと思っていたのだが、A社もガイドもそれをしていなかった。彼らがリスクマネジメントというものに対して無理解・無関心だったと疑われても仕方のないことだ」
「旅行者側としても参加者側としても、気象条件がよければ、このコースは特に問題なく歩けるという認識があり、実際にそのような好条件であれば重大な問題は起こらなかった可能性が高い。しかし、実際には、想定外の悪条件に遭遇し、非常に高いレベルの体力やエネルギーを要求されることになった。そして、それに耐え得る能力を持っていた人はわずかであった、ということになる。今回の低体温症の発症は非常に急速であるが、これには過酷な気象要因だけではなく、体力の急速な消耗も関係していた可能性が高い」

繰り返される金融危機
 チャールズ・キンドルバーガーの「熱狂、恐慌、崩壊 -金融恐慌の歴史」(原著1980年)「金融危機は何度も蘇る多年草」
 ジョン・ケネス・ガルブレイス「バブルの物語」(1990年)
「市場での神話と金融レバレッジの形成が揃えばバブル」
 ロバート・シラー「根拠なき熱狂」(2000年)
「多くの投資家はただ乗りしているだけ」
 ケネス・ロゴフ&カーメン・ラインハート「国家は破綻する - 金融危機の800年」(2009年)
「金融危機のたびに『今回は違う』(This Time is Different)という言葉が繰り返される」 今回の危機(2007年のサブプライム危機に端を発するグローバル金融危機)は「第二次大収縮」
 米国政府金融危機調査委員会「The Financial Crisis Inquiry Report」
(2011年)
「委員会としては、今回の危機は避けることができたと結論づける。すなわち、人の行為や不作為、判断ミスによって引き起こされた。そして警告は無視された。最大の悲劇は、誰もこのことを予想できなかった、したがって何も手は打てなかったという決まり文句を受け入れることであろう。もし我々がこの認識を受入れるなら、危機はまた起きる」

今回の金融危機を巡る議論
(膨大なレポートや書籍)
例:ESRI「世界金融・経済危機に関する研究」プロジェクト(2010年)、 米国政府金融危機調査委員会「The Financial Crisis Inquiry Report」
(2011年)、 CEPR「The Crisis Aftermath:New Regulatory Paradigms」(2012年)、 Carmen Reinhart & Kenneth Rogoff「This Time isDifferent」(2009年)、 Raghuram Rajan 「Fault Lines」(2010年)、 ロナルド・ドーア「金融が乗っ取る世界経済」(2011年)

• マクロ面 ~ グローバル・インバランス(含む欧州域内)の拡大、不動産バブル、金融政策の失敗(とくにグリーンスパン・プット)、実体経済と金融システムと政府債務の「負」の相互作用
• ミクロ面 ~ 影の銀行システムの肥大化、グラム・リーチ・ブライリー
法(1999年)による投資銀行業務への傾斜、「Originate toDistribute」による証券化商品の粗製乱造、格付け偏重、過度な報酬イ ンセンティブ、金融工学とリスク計量化手法の失敗、銀行破綻法制の不備、自己資本比率規制のpro-cyclicality
• 思想面 ~ 金融市場の暴走、行き過ぎた金融資本主義、もっと社会や実 体経済に貢献する金融へ

ミクロ面の例: UBS レポート(2008/4)のポイント
― UBS銀行は、サブプライムローンを含む証券化商品の組成とトレーディングの失敗から2007年度に多額の損失を計上。
 ガバナンス
~ 収益・営推優先、トレーディング重視、管理部門軽視
 報告体制
~ サイロ化、フロント依存、難解、ファンダメンタルズ軽視
 インセンティブ体系
~ 割安な社内調達コスト、単年度収益偏重の報酬体系
 リスク計測
~ 過去データや外部格付けへの依存、ベーシスリスク軽視
 各種リミット
~ 新種商品・業務を管理する体制の未整備

金融機関で繰り返されるリスク管理の失敗
― 問われているのはリスク管理の手法だけでなく、モラルも。
• JPモルガン・チェースにおけるデリバティブ取引の失敗
「大きすぎてつぶせない(too big to fail)銀行における、複雑すぎて把握できない(too complex to depict)問題」(Gillian Tett、FT紙)
• バークレイズにおけるLIBOR不正操作問題
「牧師がカジノを経営するだけでなく、説経壇の下にある隠れたペダルを使ってルーレット盤を操作しているようなもの」(Jonathan Ford、FT紙)
「トレーディング部署の文化はもはや受入れがたい。・・もし多くの銀行で大勢の人が職を失ったら非常に良いことである」(john Gapper、FT紙)
• 野村證券における公募増資情報の流出
「これまでに野村證券の営業姿勢、執務態勢、コンプライアンス等における問題として示してきたことは、証券会社としての信頼性に疑義を生じさせる
ような重大な制度上の欠陥であり、こうした制度的欠陥を放置すれば、資本市場の公正さ・信頼性の維持に重大な影響を及ぼすことは明らか」(2012年
6月29日 調査委員会の報告書)

金融危機の後に来るもの
「二度と金融危機を起こさない」ことは可能か
 規制監督の強化~バーゼルⅢ(自己資本・流動性規制)、SIFI対応、ドッド・フランク法、ボルカー・ルール等
 しかし、今次金融危機はまだ終わっていない
~債務調整問題の長期化懸念。新興国経済が抱える不安。最後に残る中央銀行のバランスシート調整問題。
 危機の後に来るものは次なる危機?
背景①止まらない金融市場のグローバル化と拡大・複雑化
② 不十分なグローバル・ガバナンス
③頓挫した金融リスク管理のイノベーション
~ ポストVaR(バリュー・アト・リスク)が見えない。
④人間の性(さが)、歴史の必然
~ 懲りない、傲慢。「弱い環」は必ず存在し、狙われる。
~「銀行危機は機会均等の危機である。これは、人間の性質に根ざす何か根源的なものが働いているからではないだろうか」(ロゴス&ラインハート2009の日本語版序文)

政策や行政機関に必要なリスク管理の視点
 リスク・コミュニケーションの強化(かねてから指摘されていること)
~ 誠実、公正、信頼、専門性など
 「想定外」への備え・・柔軟性、レジリエンス
~「予測」や「見通し」は「想定」と思え
~ リスク・シナリオやストレステスト、コンティンジェンシー・プランの必要性
 「不作為」がもたらすリスクへの気づき
~ 国家賠償請求訴訟における行政便宜主義と裁量権収縮の理論
~ 行政事件訴訟における「リスクからの保護義務」概念
Cf.小田急訴訟最高裁大法廷判決(2005.12.7)での藤田裁判官と町田長官の補足意見
 オペレーショナル・リスクの管理強化・・事務の適正さ確保
 危機管理の徹底・・保守性の原則、過小評価や身内意識は厳禁
 リスク・ガバナンスの強化・・「横断的」かつ「客観的」な組織内リスク評価
~ リスク管理部署の設置、オンサイトとオフサイトの区別
~ リスクの洗い出しとPDCAサイクルによるリスクの管理
 民間とのダブル・スタンダードは避けるべき。

オオカミ少年のつらさ(リスクの非対称性)
• 中国・九州北部豪雨(2009年)での事例
(山口県防府市の例 7月24日讀賣新聞)
「これまでに土砂災害警戒情報が出ても、土砂崩れは起きなかった。安易な勧告はかえって危険を招くこともあると考え、現場を見るまで出せないとの認識でいたが、甘かった」(ある担当者)
• 茨城・栃木両県で発生した竜巻(2012年5月6日)での事例
「注意情報は都道府県単位で発令され、場所や時間の精度が低いのが現状。
自治体の担当者は、『認識が甘かった面はあるが、頻繁に情報を流すと警 戒感が薄れるかもしれない』と対応に頭を悩ませている」(5月8日日本経済新聞夕刊)
• ニューヨーク大学ヌリエル・ルービニ教授の例
2006年秋のIMF総会講演「アメリカ経済は住宅バブルの破裂を契機に極め て深刻な不況に陥る」。2008年初における発言「深刻な金融危機が発生し、ウォール街は1930年代以来の打撃を被る」
(参考)2009年初のチェイニー副大統領インタビュー発言
「金融危機は9.11に似ている」
• オオカミ少年は貴重な存在!

リスクやリスク管理に関する知見の共有
• 公的部門内、公的部門と民間部門間の知見の共有
(例)産業技術総合研究所、日本銀行金融機構局高度化センター
• 学問や実務の世界における分野を超えた研究や交流
(例)「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会」の報告(2011年9月)
~古文書等の分析、津波堆積物調査、海岸地形等の調査などの科学的知見。地震学、地質学、考古学、歴史学等の統合的研究を充実。
(例)日本リスク研究学会、「失敗学」や「危険学」プロジェクト
• リスク教育の充実
(例)「危険学」における「子供のための危険学」

リスク管理はなぜ失敗するのか
• 一言で言えば、インセンティブ(誘因)がないから 具体的には、
• 心理的なモチベーションのなさ=「もっと楽しいこと考えたい」「そんなこと言っていると本当にそうなってしまうぞ」
• リスクの非対称性=現実にならないと認識されない、リスク管理が評価されない
• 経済的なモチベーションのなさ=リスクを管理するとリターンが得られないという誤解
• これらインセンティブ問題に加えて、「予測可能な領域」と「予測不可能な領域」の境界は絶えず変化するという事実に対する認識が不足

伝えたかったこと
• リスクは避けるのではなく、「向き合う」こと。
• リスクは多方面に関わることで、また、奥が深い。
• しかし、リスク管理(=リスクを認識しこれに対処する)は
決して難しいことではない。誰もが日常やっている。要は、意識と気づきの問題。
• 「守るべきものは何か」という発想からリスクを認識する。
リスク管理とは、すなわち「大事なものを守る」こと。これ が真のインセンティブ。
• そのために、
①「将来のことに対し謙虚である」こと。
②「気づきを大切にする」こと。
③「木にとらわれず森を見る」こと。
• 将来を予測することはできないが、変えることはできる。

‹5›

 

マクロ経済学

観光経済学

「21 世紀は大観光時代である」と言われているように,今世紀に入り世界の観光流動人口は加速
度的に増加している.世界観光機関(UNWTO)によると,2012 年の国際観光客総数は過去最高
の 10 億 3,500 万人を記録し,2020 年には 13 億6,000 万人,さらに 2030 年には 18 億 900 万人に
なると予測されている2).また世界旅行ツーリズム協議会(WTTC)の報告では,世界全体の観
光産業の経済規模(観光 GDP)は,2012 年には6.6 兆米ドル(世界全体の GDP 比約 9.3%)に達
し,全世界で 2 億 6,000 万人が雇用され,2023年には世界の GDP 全体の約 10%に当たる 10.5 兆
米ドルに膨れあがると推計されている3).このような国際観光旅客の急増と観光産業の成長の背景
には,中国,ロシア,ブラジルなどのブリックス(BRICs)と呼ばれる国々の経済発展が大きく影
響している.特に,中国の国際観光の発展は目覚ましく,2011 年の国際観光支出は 726 億米ドル
を記録し,ドイツ,アメリカに次ぐ世界第 3 位の規模にまで成長してきた4).
このように観光産業は世界各国の経済発展を支える重要な基軸産業へと成長している.このよう
な状況において世界観光機関では,観光産業の経済規模を推計するために観光サテライト勘定
(TSA)を策定して,世界的規模で観光統計の整備を進めている.同時に,観光現象に対する経済
学的研究も活発化しており,わが国においても理論的・実証的研究が進みつつある.
本稿では,わが国の観光現象に対する経済学的研究の主要な研究動向を概括する.特に,近代経
済学の分野であるミクロ経済学とマクロ経済学の視点から観光の経済学的研究の動向を概括する.
Ⅱ 観光経済学の体系化
観光が経済学の研究対象となった 20 世紀初頭と言われている.1900 年代の初め,第 1 次大戦
後の西欧諸国では,戦後の経済復興を促進する上で観光は有力な手段とされた.特に,物資不足に
悩むイタリアやドイツなどの国々では,観光者からもたらされる観光収入は外貨獲得の手段として
看過できないものであった.当時,ドイツ,イギリス,イタリアの大学では,観光事業に対する学
術的研究が積極的に行われていた.イタリアのローマ大学では,アンジェロ・マリオッティ(A.
Mariotti)が観光事業政策の観点から観光旅行者の動態分析を行い,観光経済学研究の基礎を築
いた.また,ドイツのボールマン(A. Bormann)やグリュックスマン(R. Glücksmann)は,観光
研究の学術的体系化を推し進めた.しかし,彼らの体系化は経済学に特化したものであり,総合的
学問としての観光学を発展させるには至らなかった.第 2 次大戦後,経済学の主流が西欧からアメ
リカに移るに従い,観光の経済学的研究は近代経済学の進展から大きく取り残された.その理由の
一つは,観光の概念や定義を近代経済学の枠組みで定式化することが難しく,その不明確さのため
に実証的研究に耐え得る統計的精緻化を行うことができなかったからである.しかし,1970 年代
になって経済学的研究は大きく進展し始めた.上記でも述べたように,観光の国際化により大量の
国際観光旅客の流動が始まり,その経済的効果を無視することができなくなった.近代経済学の理
論的構築の進展と共に,観光の経済学的研究の体系化の動きは加速し,新古典派経済学やケインズ
経済学の理論的枠組を取り入れた応用経済学の一分野として観光経済学は展開する.その中で,近
年,特に観光経済学の発展に寄与してきた研究者といえば,イギリスのセア・シンクレア(M. T.
Sinclair)であろう.シンクレアは,観光現象をより高度なミクロ経済学理論・マクロ経済学理論
の視点から捉え直し,環境評価を観光経済学の分析手法にも取り入れて,理論と実証の双方から観
光経済学を体系化させた.
わが国では,観光の経済学的研究は主に井上萬壽藏(1947)や田中喜一(1950)において始めら
れた.彼らの観光の中心テーマは「観光事業」であり,観光事業の特性や統計的分析に研究の主眼
が置かれていた.田中は,マリオッティ,ボールマン,グリュックスマンの考えを比較検討し,そ
の上でわが国の観光事業の特性を分析している.
観光の経済学的研究の体系化が進むに従い,「観光経済学」という名称が使われ始めた.除野信
道(1975)は,経済地理学・経済空間論を含む視点から観光経済学の展開を試みている.「観光社
会経済学」では,「観光の需要と消費の経済理論」や「観光の巨視経済学的分析」を章立てし,近代
経済学の視点から分析を行った.近代経済学のミクロ経済学的視点とマクロ経済学的視点をより明
確に打ち出したのは塩田正志(1975)である.塩田は,「観光経済学の基礎概念と方法」において,
「観光経済学の体系」に触れ,「観光経済」を「観光経済学」へと発展させていくためには,近代経
済学のミクロ理論とマクロ理論の両面から観光の経済学的研究を展開していかなければならないと
説く.この塩田の意見を踏まえて,観光経済学の体系化をより発展させたのは小沢健市(1983)で
ある.小沢はこれまで比較的研究が少なかった観光供給サイドや不完全競争市場にも焦点をあて,
観光経済学のミクロ理論の精緻化を行った.またマクロ経済学理論にも目を向け,ケインズの所得
乗数モデルを発展させ,「観光乗数モデル」を導出した.小沢が導出した「観光乗数モデル」は,
その後の観光経済学において観光の経済的効果を考察する上で大きく貢献している.
近年,観光現象に対する経済学的研究も進展している.特に,観光統計データの整備が進む中
で,観光インパクトに対する経済波及効果の導出や宿泊統計データを利用した地域間比較などの実
証的研究に関心が向けられている.また,観光開発や観光まちづくりに対する環境評価や非経済的
価値評価について,統計的手法(TCM・CVM・HPM 等)を用いて推計する研究なども展開して
いる.このような実証的研究だけではなく,応用経済学の側面から観光に対する理論的研究(産業
組織論からの市場分析,ゲーム理論による交渉モデル,ネットワーク理論による観光者分析,空間
経済学からの観光立地など)の精緻化も進みつつある.
現在,観光系の大学院では,観光経済学研究を講義科目に取り入れるところも増え,観光経済学
を専攻する若手研究者の輩出に努めている.また,観光経済学のテキストも数多く出版されるよ
うになり,観光経済学が応用経済学の一分野としての地位を築きつつある.
Ⅲ 観光のミクロ経済学研究
本章では,ミクロ経済学的視点からわが国の観光研究の動向を概括する.観光をミクロ経済学
的に捉えると,観光財サービスを購入する需要者(観光者)と,それらを複合的に生産する供給
者(観光企業)とに分けることができる.そして,観光財サービスの取引において市場が形成され,
市場調整機能によって需給の一致点で取引数量と市場価格が決定される.それゆえ,観光を経済学
的に研究する場合,需要,供給,市場の 3 つの視点は欠かすことのできない重要な要素である.
以下では,観光経済学における需要分析,供給分析,そして市場分析に関する主なミクロ経済学
的研究の動向を取り上げる.
1)観光需要の分析
観光需要について,従来の経済学ではそれを二つの領域から捉えてきた.一つは観光を余暇(レ
ジャー)の一部と捉え,観光需要を時間的概念で定式化するものである.観光への需要を余暇時間
への需要と想定し,労働を派生的需要とした上で,労働者にとって最適な労働時間を決定した後
に副次的な産物として余暇時間を導出する.このような観光(余暇)需要に対する定式化は,これ
まで余暇経済学や労働経済学の分野で広く取り扱われてきた.他方,ミクロ経済学の消費理論の領
域では,観光需要を観光財サービスに対する需要と想定し,観光財サービスを複合的な財サービス
の組み合わせ(合成財)と考えて観光需要を定式化した.しかし,このような定式化は観光財サー
ビスとしての特性が明確にモデルにおいて示されておらず,その後の観光需要のミクロ経済学的基
礎付け,特に実証的研究(推計モデルの構築)の進展に繋がっていかなかった.
除野信道は,「観光社会経済学」(1975)において,観光を余暇活動の一部と捉えて,所得と余暇
の選択理論を考察している.同様に,齊藤精一郎は「講座余暇の科学 2 余暇経済学」(1977)に
おいて,レジャー需要分析を行っているが,そこでは消費者行動理論が中心であり,消費者の観光
に対する需要という概念で捉えていなかった.齊藤や除野の研究は,これまでの伝統的なミクロ経
済学の労働供給理論をレジャーに対する需要に敷衍したものであった.その後,小沢健市(1994)
は,観光に対する需要を観光財サービスに対する需要と置き換え,観光財サービスを複合財と仮定
することによりミクロ経済学の分析枠組みに取り入れた.これまでの観光需要の想定では,観光財
サービスを「ツーリスト自身が観光体験 ・ 経験を生産・消費するために購入し,調達する財 ・ サー
ビスを観光財サービスあるいは観光商品」(小沢1994)と捉え,観光体験 ・ 経験という観光目的を
達成するための派生的需要であると考えられていた6).しかし,その後,観光財サービスは観光体
験 ・ 経験を含めた観光商品であると捉えられ,それ自身が本源的需要であると想定された.これ
は,山上(1997)によると「観光客が知覚する観光商品は,実は事前にデザインされた核便益のみ
ならず,観光行動の過程において意図すると否とにかかわらず付加される付加価値部分を含めたも
のであり,その全体が観光客にとっての評価の対象となる」ということである.
最近の観光需要の定式化では,観光需要をデスティネーション(観光地)に対する需要と考え,
各観光地での観光者数や宿泊者数を需要変数と想定して,外生変数(各観光者の所得や各観光地間
の競合性の度合)の影響を理論的・実証的に分析を行っている.
2)観光供給の分析
観光供給の分析では,供給者をどのように定式化するかが問題となる.これまでの観光供給
の研究の視点は,観光財サービスの生産者あるいは観光企業というよりも,それらをより包括的
に捉えた観光事業または観光産業という領域に向けられていた.そこでの研究対象の多くは,ホテ
ルや旅館などの宿泊業,レストランなどの飲食業,旅行斡旋を行う旅行業,そしてテーマパーク
などのサービス業に対するものであり,その分析手法は,組織や法令などの制度分析,経営学や
マーケッティングの経営分析を中心とするものであった.
観光供給の経済学的研究として,わが国では,田中喜一(1950)や除野信道(1975)などにより
理論的分析が行われてきたが,観光供給に関するミクロ理論の構築は,需要分析に比して進展しな
かった.それは,田中が指摘するように,観光供給の生産構造は複合的であり,その生産活動領域
は一般財と比べると多角的であるため,供給側面を理論的に把握することが困難だということによ
る.周知のように,観光財サービスは単一の生産者によって供給されるものではなく,多様な生産
者によって複合的に供給される生産物である.例えば,観光関連産業でいえば,卸売・小売業,金
融・保険業,不動産業,運輸・通信業,サービス業などの多種多様な業種の異質な生産活動を通じ
て,一つの観光財サービス(旅行パック等)が複合的生産物として市場に供給される.また,生産
において用いられる資源は,市場で取引される財サービス(経済財)だけでなく,自然や景観など
市場で取引できない,さまざまな財(自由財)から構成される.このような観光供給の特徴は,一
企業一生産物を前提とする従来のミクロ経済学の枠組みでは定式化が困難である.観光経済学とし
て精緻化していくためには,既存のミクロ経済学的枠組みを新しく再構築していかなければなら
ない.
シンクレア・スタブラー(2001)は,観光供給を考察する場合,他の経済学の理論枠組みを積極
的に導入するべきであると主張する.特に,1980年代以降,研究が盛んな「産業の経済学」や「ゲー
ム理論」を活用することにより,観光関連産業やその市場をより精緻化できると考えている.例え
ば,旅行業者の取引は,「産業の経済学」のプリンシパル・エージェント理論から把握することが
可能であり,旅行費用などの割引システムは交渉ゲーム理論からその制度的役割を理解することが
できる。
.観光供給のあり方をより理解していくためには,観光企業に対する実証的研究の進展が
求められると同時に,現在進化しつつある経済学理論を包括的に取り込むことが必要とされる.
3)観光市場の分析
観光市場をミクロ経済学的視点から捉えると,そこに登場する経済主体は観光財サービスを需要
する観光者とそれらを複合的に供給する観光企業とから構成される.需要者である観光者は,自己
の所得と市場価格を所与として,自己の満足(効用)が最大になるように観光財サービスを購入す
る.一方,供給者である観光企業は,市場価格を所与として生産費用の制約の下で,自企業の利潤
が最大になるように観光財サービスを生産する.
そして,需要者と供給者の取引において観光市場が形成され,市場の調整機能により需給の一致点
で取引数量と市場価格が決定される.このような経済主体と市場の想定は,伝統的なミクロ経済学
理論(新古典派経済学)に基づくものであるが,経済主体の合理的行動を想定として単一の市場で
の効率的な取引を想定している.
池田輝雄(1997a)によると,観光の需要側を観光者,供給側を観光地と捉えるならば,その需
要と供給を均等化させるのは観光仲介業者(旅行業者)の役割であり,観光仲介業の市場での競争
状態の度合に応じて価格は伸縮的に動き,短期的,長期的に市場調整が行われる.観光地におけ
る観光需要の季節変動性を考えるならば,観光仲介業者による需給調整は,新古典派経済学で想定
されるほど容易なものではない.
Ⅳ 観光のマクロ経済学的研究
本章では,マクロ経済学的視点からわが国の観光研究の動向を概括する.観光をマクロ経済学的
に考察する場合,「国民経済」,「国際経済」,「地域経済」の 3 つの領域から捉えることができる.
以下では,それぞれについて主なマクロ経済学的研究の動向を取り上げる.
1)国民経済の領域
「国民経済」の領域では,観光は国家の経済成長を支える重要な経済的要因であり,観光消費や
観光投資などの総需要の変化が国民経済に大きな影響を与える.観光者の消費(宿泊費,交通費,
飲食費,土産・買物費等)の変化や観光企業の投資(ホテル,レストラン,観光施設の建設等)の
変化がケインズの所得乗数効果を通じて国民所得を変動させる.特に,上記でも述べたように,観
光関連産業はさまざまな部門から構成される広域的で複合的な産業であり,需要拡大による経済的
波及効果(所得効果,雇用効果,税収効果等)は他の産業に比べて国民所得に大きな影響を与え
る.これまでマクロ経済学の研究では,観光インパクトを分析対象とするものが多く,経済成長モ
デルや乗数理論を用いて観光の有効性を説明してきた.乗数理論では,小沢健市(1983)が,アー
チャー(B. H. Archer)を参考にして,観光乗数モデルを展開した.これは,ケインズの所得乗数
モデルを発展させ,観光支出が投資を誘発するとの想定の下で,国や地域に与える経済効果を理論
的に定式化したものである.北條勇作(2001)は,このアーチャー・小沢モデルの投資関数に加速度
原理を導入することにより,観光乗数モデルをより精緻化させた.近年では,人的資本の蓄積を重
視する「内生的成長モデル」を観光企業の成長モデルに適用した研究が進められている8).
2)国際経済の領域
国際経済の領域において,これまで国際観光に関する経済学的研究の重要性は認識されてはきた
が,国際観光統計データの未整備と国際観光旅客の定義の不明確さによって,統計的手法を用い
た経済学的研究はわが国において進展しなかった.しかし,近年,国際観光に対してマクロ経済
学の領域からの関心が高まりつつある.グローバル化の進展と世界的規模での交流人口の拡大に
よって,インバウンドやアウトバウンドの動向が「国際経済」の観点からも無視できなくなって
きた.また,国際観光の統計データが整備されるに従い,国際観光の経済的効果を計測するための
理論的・実証的研究が進展してきた.国際旅行需要を対象とした実証分析では,計量経済学的手法
を用いて所得効果,価格効果,為替効果などが推計され,国際間の比較が行われている.旅行需要
分析では,旅行者の旅行需要に影響を与える経済的要因を明示して,時系列データによりその経済
的効果(為替相場,可処分所得,価格等)を分析し,重回帰分析により旅行需要の弾性値などが計
測されている.また,アウトバウンドだけでなくインバウンドの計量的分析も進展しており,拙
稿(2001)では,インバウンドの各国別動向とその経済的要因を分析し,訪日旅行需要の所得弾力
性,為替弾力性,価格弾力性などを推計した上で,時系列データの定常性について単位根検定を
行い,インバウンドデータの非定常性を確認した.
近年,計量経済学の分析手法も高度化し,応用一般均衡(CGE)モデルによる国際観光の実証
的研究も進んでいる.わが国では国土交通省を中心に観光統計が整備され,国際観光の領域におい
てもマクロ経済学的研究の進展が期待される.

3)地域経済の領域
「地域経済」の領域では,観光の「地域経済」に果たす役割が重要性を増している.特にわが国
では,景気低迷や過疎化により「地域経済」が衰退化していく中で,観光戦略を地域振興策の柱
にすえる自治体が増えており,観光は「地域経済」にとって欠かすことのできないものとなって
いる.観光振興策により宿泊客や日帰り客を誘客し,観光消費を引き出すことで地域内に資金の循
環が生まれ,それが投資を誘発し,経済的波及効果の下で所得や雇用の増加に繋がり「地域経済」
は活性化する.特に,観光は複合的産業であり,地域内に与える経済的波及効果は他の産業に比べ
て大きい.現在,観光庁では統一的な基準の下で各都道府県の観光消費額を調査し,観光統計デー
タの整備を進めている.また,自治体の多くは,地域産業連関分析により地域内での観光イベント
や特定プロジェクトの経済的波及効果を推計し,観光政策の策定に役立てている.
藤本高志(2000)は,観光消費が農山村地域の所得や雇用を創出するのかを検討するために,奈
良県十津川村を事例として,産業連関分析により観光による地域内所得や雇用創出効果を計測し,
観光タイプ(旅館・ホテル宿泊型,民宿宿泊型,キャンピング型,日帰り型)による経済効果の違
いを明らかにした.霜浦森平・宮崎猛(2002)は,京都府美山町の都市農村交流事業を事例として,
産業連関分析を用いて,都市農村交流産業について経済効果を計測し,地域経営体の内発的発展の
あり方を考察した.また,河村誠治(2002)は,地域観光の視点から産業連関分析を捉え,その具
体的な適用方法について論じている.
Ⅴ 観光経済学研究の課題
本章では,近年急速に整備が進んでいる観光統計の現状ならびに整備の方向性を概括し,非市場
的な価値をもつ観光の経済的価値ならびに環境評価に関する研究動向,観光における持続可能性の
問題を整理する.
1)観光統計の整備
上記でも述べたように,観光の経済学的研究がこれまで進展してこなかった原因の一つとして,
観光統計の未整備があげられる.味水佑毅(2006)は,これまで観光統計が整備されてこなかった要
因として,①変更費用の問題,②過去の統計データとの整合性の問題,③観光統計の基準統一化の
意義に関する不明確性の問題,④基準が統一化された後の観光統計,さらなる把握が可能になった
後の観光客の動態の活用に関する不明確性の問題,を挙げ,観光統計の整備において,その「活
用の視点」が欠如していると指摘する.観光統計の未整備により,観光入込客数データを地域間で
単純に比較することができず,観光需要の実証的研究の進展を大きく遅らせることになった.
しかし,現在,わが国の観光立国への政策的転換により,政府は観光統計の体系的整備の必要性
を痛感し,宿泊統計,観光入込客統計,外国人旅行者に関する統計,旅行・観光消費動向調査の 4
つの観光統計の整備を進めている.また,世界観光機関(UNWTO)と連携をとり,観光統計の
世界標準化を進めており,国民経済計算(SNA)の枠組みを利用した観光サテライト勘定(TSA)
を作成し,政策立案に役立てようとしている.TSA はすでにフランス,カナダ,オーストラリ
アなどの観光先進国 75 カ国の国々で導入され活用されており,わが国においても,2009 年から
SNA を用いて推計を行っている.TSA の導入により,統一的な基準の下で,観光者,観光生産物,
観光関連産業を明確に定義し分類することが可能で,観光 GDP などの付加価値の把握や GDP に
対する観光の寄与度を計測でき,同一の指標の下で国際比較を行うことができる.
2)観光の経済的価値評価
わが国では,観光開発を含めたさまざまな地域開発プロジェクトが中央行政主導型のもと計画さ
れ実施されてきた.大型プロジェクトの実施にあたり,国や自治体では,公共投資の効率性と優先
性,費用に対する便益性に関心が集まり,公共事業の政策評価として費用便益分析(CBA)など
の手法が用いられた.費用便益分析は,公共事業の社会的便益と社会的費用で計測し,その公共事
業が社会全体としてどの程度の純便益を見込むことができるかを導出するものである.これは市場
で評価不可能な外部効果などもその評価の対象に含めており,地域への外部効果が比較的に大きい
公共事業の政策評価も可能となった.しかし,費用便益分析にも限界があり,環境などの非市場財
への便益評価が難しいという問題点がある.
観光についてみると,観光財サービスは,複合的な財であり,さまざまな産業や市場が複合的に
組み合わさり提供される財サービスであるため,地域に与える経済的波及効果は非常に大きなもの
である.そのため,多くの自治体では地域振興の柱として観光事業を捉えている.しかし一方で,
観光活動に伴う社会的費用(観光ゴミや交通渋滞,騒音等)が発生するのも事実である.このよ
うな社会的費用は市場価値で評価することが難しく,市場価格で評価された経済効果のみが計測さ
れる傾向にある.また,観光財サービスには,市場では評価されない非市場財としての経済的価値
を持つものも多い.観光インフラなどの公共事業に対する費用対効果を考える場合,非市場的価値
を含んだ経済的効果を導出しなければならない.
このような状況に対応して,環境経済学や観光経済学の分野では,自然環境やアメニティなどの市
場価格で評価されない非市場的価値を計測する分析手法の研究が進んでいる.観光インパクトの非
市場的経済価値を計測する方法として,旅行費用法(TCM),仮想市場評価法(CVM),コンジョ
イント分析,ヘドニック価格評価法(HPM),などの手法を用いた研究が進み,近年,数多くの論
文が発表されている.
栗山浩一・庄子康編(2005)では,国立・国定公園の管理を事例として,観光地を有する自然地
域の管理において,旅行費用法や仮想市場評価法など手法を用いた経済評価のあり方が概説されて
いる.田中裕人(2007)は,観光地のもつ経済的価値を旅行費用法により評価を行った.外来生物
の繁殖による公園レクリエーション地の価値の損失を金銭的に評価した.外来生物法の施行以後,
自然環境に対する影響評価への意識が社会的にも高まりつつあり,政策評価において重要な研究分
野になっている.土居英二編(2009)では,伝統的な観光地である熱海を事例として,観光イベン
トの経済波及効果を導出し,仮想市場評価法やヘドニック価格評価法を用いて熱海の景観の価値を
計測している.今後とも,これらの計測手法を用いた経済評価が,多くの観光地で展開されること
が期待される.
3)観光の持続可能性
「観光の持続可能性」では,観光はこれまで環境保全に対して対立的な立場から取り上げられて
きた.観光開発や観光事業において,観光業者は自然資源や環境資源と呼ばれる数多くの資源を利
用する.時には「コモンズの悲劇」と呼ばれる許容量を越える過剰な利用により資源の枯渇や環境
悪化をもたらし,観光業者と住民との間に深刻な対立関係を生じさせる場合もある.環境破壊が社
会問題化する中で,開発と持続可能性を如何に両立させるかが国の施策においても重視され始めて
おり,環境論や環境経済学などの研究を促進させた.「観光の持続可能性」を経済学的視点から考
察する場合には,「市場の失敗」に対応した制度的役割(課税や補助金,利用規制等)に対する経
済的効率性からの評価が行わなければならない.
西岡久雄は,「観光,環境,および開発」(1993)において,M. T. シンクレアの論文を引用して,
経済学の役割を次のように述べている.「観光開発管理のために経済学の果たしうる役割は,観光
開発と環境持続可能性とを達成できるように,価格,課税,助成金,観光客数制限などの水準に関
する指針を提供することである」.環境資源の無制約な過大利用は,環境の悪化を招き,それは結
果的に観光者数を減少させるという悪循環を引き起こす.環境資源が修復不能,または困難な場合
は,問題はより深刻である.そこでは,政府や環境組織による適正な管理運営が求められる.小
沢(2006)は,持続可能な発展について,「持続可能な観光の問題を含めて,いわゆる異時点間の
効率的資源配分の問題と資源間での代替を可能にする技術の有無の問題に帰着する」と論じたうえ
で,「持続可能な観光ないし観光の持続可能性の議論は,持続可能な観光それ自体を独立に取りあ
げることは必ずしも適切な問題設定とはいえない…….むしろ,持続可能な発展を実現するため
に,観光および観光研究からはどのような貢献が可能か,という問題設定が望ましい」と述べて
いる.
Ⅵ おわりに
わが国において,観光現象が近代経済学の枠組みの中で本格的に研究され始めたのは 1970 年代
初頭である.当時,観光現象をミクロ経済学やマクロ経済学の領域から純粋に研究する者はごく少
数派であり,観光の経済学的研究の大半は経済地理学や交通論,労働経済論からの研究であった.
これは海外でも同様の状況にあり,観光経済学は近代経済学の潮流から大きく取り残されていた.
しかし,その後,近代経済学を含む社会科学の多くは理論的・実証的分野において着実に進展して
きた.理論体系の普遍化が進み,計量技術の高度化により,実証的研究は分析手法において精緻化
された.また,観光交流人口が世界的規模で拡大していく中で,観光に対する関心が近代経済学を
専攻する研究者の間でも高まりつつある.現在,観光統計データの整備が進み,ミクロ経済学的基
礎付けとする実証的研究が数多くの研究者によって取り組まれており,観光支出による経済効果の
推計が観光経済学を学ぶうえで重要な役割を持つようになった.
西岡久雄は,「観光経済学の構想について」の中で,観光経済学は,交通経済学や環境経済学と同様に,応用経済学として独自の地位
を築くべきであると主張した.応用経済学とは,伝統的な経済学理論を継承しながらも,独自の理
論体系を持ち合わせるものである.その意味では,観光経済学は応用経済学としての地位を確立
できたとはいえない.観光経済学は,これまでの数多くの研究者の先駆的な努力により研究領域を
量と質ともに高めてきた.今後,観光現象に対する経済学的研究が独自の理論的・実証的体系の構
築を目指しながら進歩・発展していかなければならない.
本稿では,わが国の観光経済学研究の動向について,ミクロ経済学・マクロ経済学の視点から概
括してきた.現在,観光経済学は応用経済学の分野において,その研究の裾野は幅広く多方面に広
がっており,外国における観光経済学研究はめざましく進展している.勿論,本稿ではこれらすべ
ての研究を網羅できていない.特に,公共財としての観光資源,観光の外部効果,観光税などにつ
いては多くの研究成果があるにもかかわらず本稿で触れることができなかった.これらは本稿に残
された課題である.
‹6›

 

ケインジアンの経済ケインズ経済

ケインズ,レイヨンフーヴッド,小野
1. レイヨンフーヴッドと小野
1.1. rケインジアンの経済学とケインズの経済学』と『不況の経済学J
1. 2. レイヨンフーヴッドの経済学の特徴
1. 3. 小野の諸著作
2. r不況の経済学』
2.1. 新古典派批判
2.2. ケインジアン批判
2.3. 流動性保有願望と消費願望のせめぎ合い
3. 小野説への疑念
3.1. マクロ経済学のミクロ経済学的基礎 vs.意図せざる悪しき帰結
3.2. 流動性保有願望の非飽和性 vs.貨幣の価値貯蔵機能
3.3. 投資理論の欠落
1. レイヨンフーヴッドと小野
1.1. rケインジアンの経済学とケインズの経済学』と『不況の経済学』
レイヨンフーヴッドと小野善康は,共にケインジアンではあるが,いずれも「自
分は他のケインジアンとは一線を画するケインジアンである」と考えているケイン
ジアンである。
レイヨンフーヴッドに『ケインジアンの経済学とケインズの経済学Jl (1968) と
いう書物がある。この書物の題名そのものから, i自分は也のケインジアンとはー
線を画するケインジアンである」というレイヨンフーヴッドの思いを嘆ぎ取ること
治宝できる。
他方,小野に『不況の経済学一一匙るケインズj (1994) という著作がある。
この書では,新古典派とケインジアンの双方が批判されている。本稿では,小野の
主張に論評を加えることにしよう。
しかし,その前に,レイヨンフーヴッドの経済学の特徴を明らかにしておこう。
1. 2. レイヨンフーヴッドの経済学の特徴
レイヨンフーヴッドの経済学を理解するに当って,次の 2つのことが重要である,
と筆者は考えている。
第 1に,レイヨンフーヴッドは,異なるタイプの経済理論がどのように関係し合
っているか,を解明することに並々ならぬ関心を持っている。論文集『情報と調整』
の序文で,彼は次のように述べている。
iT. S.クーンなら『通常科学』と呼ぶであろうものは,この論文集ではたいして
問題とならない。即ち,与えられた『パラダイム』の枠内でのパズル解きの方法
はたいして問題とならない,ということである。その代りに,これらの諸論文が
主として意図しているのは,異なるタイプの経済理論間あるいは相対立する理論
聞のぼんやりした関保を理解することである。人が諸理論聞の関係を研究するの
は,そうした関係の研究それ自体が目的だからではなく,むしろ,存立可能な綜
合とはどのようなものになりそうか一一そして,そうした綜合の方向に進むた
めには,何が捨てられ,何が組み立てられねばならないかーーを理解しようと
努めるからである。」
第 2に,レイヨンフーヴッドは,市場機構がどの程度自己調整的かということが
マクロ経済学の中心問題である,と考えている。『情報と調整』の第 6論文で,彼
は次のように述べている。
(2) 小野善康『不況の経済学一一匙るケインズ』日本経済新聞社,平成 6年,第 2版,平
成12年。
(3) L吋onhufvud,Axel: lnformαtion and Coordinαtion – -Essαys in Mαcroeconomic
Theory, Oxford University Press, New York, 1981, pp. vi-vii. (中山靖夫監訳『ケインズ
経済学を超えて一一情報とマクロ経済』東洋経済新報社,昭和59年, vii頁)。尚,訳文
には少々変更を加えた。
ケインズ,レイヨンフーヴッド,小野 31
「私の考えでは,マクロ経済理論における中心問題はーーまた繰り返すが一一
経済あるいは少なくともその市場部門は,どの程度まで自己調整的な体系と見て
さしっかえないのかという点にある。」
筆者は, rレイヨンフーヴッドの経済学一一市場機構の自己調整力と利子率メ
カニズムJ(r広島経済大学経済研究論集』第16巻第 1号, 1993年 6月)で,レイヨ
ンフーヴッドの経済学について論じた。
レイヨンフーヴッドには, 3.3.で再度言及することにしよう。
1. 3. 小野の諸著作
1990年代以降の小野の主要著作には次のようなものがある。
l.r貨幣経済の動学理論一一ケインズの復権.1 (東京大学出版会, 1992年)
2.r不況の経済学一一難るケインズ.1(日本経済新聞社, 1994年,第 2版, 2000年)
3. Money, Interest,αnd Stαgnαtion – -Dynαmic Theory αnd Keynes’s
Economics (Oxford University Press, 1994)
4. r金融.1 (岩波書店, 1996年)
5. r景気と経済政策.1 (岩波新書, 1998年)
6. r国際マクロ経済学.1 (岩波書店, 1999年)
7. r景気と国際金融.1 (岩波新書, 2000年)
8. r誤解だらけの構造改革.1 (日本経済新聞社, 2001年)
筆者は,上述 1の一部(はしがき,第 1章並びに第16章)を読み 2・5・7・
8を精読した。以下では 2の『不況の経済学』に焦点を当てつつ,小野の主張に
論評を加えることにしよう。また, 2.3.3.では 5の『景気と経済政策』並びに 8
の『誤解だらけの構造改革』にも言及する。
2. r不況の経済学J
2.1. 新古典派批判
小野は,新古典派とケインジアンの双方を批判しているが,新古典派の方がより
厳しく批判されている。まず,小野の新古典派批判から見て行くことにしよう。
(1) 資産保有の 2つの理由
人が資産を保有しようとするのには 2つの理由がある,と小野は言う。
第 1に,資産の保有者は「将来資産を何か具体的な財の購入に当てて実際に消費
する」ことができる。第 2に,資産の保有者には, r具体的に何かを購入しなくて
も,資産をもっていることからあれも買えるこれも買えるという可能性が膨らむ。」
小野は以上のように述べているのではあるが,上述の 2つのことは「あるひとつ
の事象」に異なった表現を与えたに過ぎない,と筆者には感じられる。しかし,そ
の点はこれ以上追究しないで,先へ進むことにしよう。
(2) 貨幣ヴェール説
資産といっても,容易に他の物へ変換できるものもあればそうでないものもある。
他の物に容易に変換できる資産は「流動性」が高い,ということになぷ流動性の
最も高い資産が貨幣である。その対極にあって,流動性の最も低い資産の代表が
「工場に設置された古びた生産設備Jである。
貨幣は, r価格計算の基準」としての機能を呆す。(筆者なら,貨幣のこの機能を
「価値尺度機能」と呼ぶ。貨幣の諸機能については3.2.で論ずることにしよう。)し
かし,貨幣の果す役割はこれに尽きるわけではない。貨幣は高い「流動性Jの体現
者でもある。貨幣は高い「流動性」の体現者でもある,という点を無視したという
ことが新古典派の誤りであった,と小野は言う。そこから出てくるのは「貨幣ヴェ
ール説」である。
新古典派の考え方は,貨幣が用いられることのない実物経済(物々交換経済と言
った方が適切であろう)からの類推に由来する,と小野は言う(:このような発想の
下では,供給側(サプライ・サイド)のことだけを考えればよい,ということにな
ろう。
(3) 個別市場の不均衡
「貨幣ヴ、エール説」の立場を採る新古典派の論者といえども,あれやこれやの財
が売れ残っている,あるいは失業者が何ほどか存在する,という事実を無視するこ
とはできないはずである。新古典派の立場からすれば,売れ残りや失業は価格硬直
性に由来する,ということになるし,売れ残りや失業が「長期」に渡って存続する
場合の処方議は,財価格や賃金の硬直性の解消ということになる一一 こうした
解釈を小野は提示している。
2.2. ケインジアン
(1) 総供給と総需要の不一致
小野のケインジアン批判へと論を進めることにしよう。
ケインズが問題にしたのは,個別市場の不均衡ではなく,一国全体の総供給と総
需要の不一致であった。総供給から消費需要を差し引いた分(貯蓄)が投資需要と
して吸収されれば,一国全体の総供給と総需要は一致して,不況にはならない。し
かし,貯蓄を行う主体(家計)と投資を行う主体(企業)は,それぞれ独立した主
体であるから,貯蓄総額と投資総額が一致する,という保証は何ら存在しない。も
し,貯蓄総額が投資総額を上回るなら,有効需要不足が起り,不況が発生すること
になる。
(2) ケインジアン批判①一一価格調整速度の高まりは不況を深刻化させるのでは
ないか?
上述の議論に対して異論を差しはさむ余地はほとんどないだ、ろう。しかし,その
先になると議論の分かれる可能性がある。
有効需要不足故に不況が発生した,という事態を出発点とした時に,その後の事
態の展開に関して,少なくとも,次の 2つの考え方が成り立つ。
1.価格や利子率の動きを通じて,不況はいずれ終わる。
2. i何ものか」の存在のために,有効需要不足は解消されず,不況は長引く。
ケインジアンは 1の考え方に立つ,と小野は言う。しかし,価格や利子率の動き
はスムーズなものでないため不況は続く,ということなる O 従って,個別市場の不
均衡に注目するか,総供給と総需要の不均衡に注目するかの違いがあるとはいえ,
価格の硬直性に困難の原因を求めようとする点において,ケインジアンは新古典派
と同根である,と小野は断罪している。
小野による E;ニュー・ケインジアンとは,価格の硬直性を明示的に考察しよう
とする人々であり,経済的な歪みが存在する場合の,一般「均衡」分析を行う一派
である。
* * *
もし,価格の硬直性に困難の原因があるのなら,価格の硬直性を取り除き,価格
の調整速度を高めることによって,事態は改善される,つまり,不況は消滅すると
いうことになろう。
果してそうか?ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』の第四章で,
貨幣賃金が伸縮的になれば,不況が尚一層深刻なものとなるかもしれない,という
ことを論じている。「貨幣賃金の切り下げ→賃金総額の減少→消費需要の減少
→資本の限界効率の低下→投資需要の減少」といったプロセスが始まるかもし
れず,こうなれば事態は手のつけられないものとなってしまう。
小野もこうしたことに言及している。
* * *
上述のようなプロセスが,いつでも・どこででも,発生する,というようなこと
ではないにしても,時として,そうしたプロセスが発生する。 1930年代の「世界恐
慌」の時代や1990年代以降の日本で,こうしたことが発生した,と筆者は解釈して
いる。そうだとすれば,価格の硬直性とは別の,不況を長引かせている「何ものか」
について考えてみることが必要になる。筆者は「貨幣の価値貯蔵機能」がこの「何
ものか」である,と考えている。そして,貨幣の価値貯蔵機能に焦点、を当てつつ
『マクロ経済学と日本経済一一不況脱出の道すじ.1 (法律文化社, 2002年)を執筆
した。 3.2.で,貨幣の価値貯蔵機能について言及する。
「何ものか」とは「流動性保有願望の非飽和性」である。しかし,
これについて論ずる前に,ケインジアンに対する小野の第 2の批判について見てお
くことにしよう。
(3) ケインジアン批判②一一一「トービンの二分法」への批判
フローの選択とストックの選択を完全に分けるという,].トーピンによって明確
化された考え方,つまり, rトーピンの(フローとストックの)二分法」を,小野
は批判する。
この二分法の下では,消費需要は,資産とは無関係に,所得のみによって決まり,
他方,流動性選好は,消費とは無関係に,他の収益資産との代替関係のみによって
決まる。
かくして, r財市場と貨幣市場の均衡がそれぞれ独立に示され」ることになるの
である。
2.3. 流動性保有願望と消費願望のせめぎ合い
2.3.1. 流動性保有願望の非飽和性
小野の「不況の経済学」の最重要概念は,①流動性保有願望の非飽和性,②利子
率の 2つである,と筆者は解釈する。まず,流動性保有願望の非飽和性の方から見
て行くことにしよう。利子率は2.3.2.で論じる。
r不況の経済学一一匙るケインズjのまえがき (3-5頁),第 2章
(55-57貰),第 4章 (92-94頁)で, r流動性保有願望の非飽和性」について論じて
いる。これを日常言語に翻訳すると,人は自ら使い切れないほどのお金を持つよう
になっても,決して満足することはなく,更に多くのお金を貯めようと頑張り続け
る,ということになろうか。これはかなり異常な想定であるように,筆者には思わ
れる。なぜ異常か,について論ずるのは, 3.2. (1)まで先送りにして, r流動性保有
願望の非飽和性」という想定の含意を明らかにしておこう。
「ピグー効果」という概念がある。貨幣賃金の切り下げが物価下落を招くと,流
動資産の実質価値が上昇して,その結果として,有効需要も増大する,というのが
それで、ある。ピグー効果を考慮に入れる限り,どんな不況もいずれは終息する,と
いうことになる。
しかし,こうした議論に異を唱える。流動性保有願望の非飽和性という事
態の下では,ピグー効果は消滅してしまい,不況は長期化する,というのである。
2.3.2. 最適行動と利子率の均等化
「不況の経済学」の第 2の最重要概念(利子率)へと論を進めることにし
よう。『不況の経済学一一ー匙るケインズ』の第 3章冒頭で次のように述べ
ている。
「有効需要不足が起こる可能性を分析するさいには,現在の消費と将来の消費と
の相対的魅力,および消費と流動性保有との相対的魅力との両者を比較すること
が必要となる。これら二つの相対的魅力の大きさは,利子率という概念を使って
定量化することができる。」
そして,金融資産の利子率,貨幣の利子率,土地・耐久財の利子率,実物資本の
利子率,消費の利子率といったものが定義されて行く。それは以下の通りである。
金融資産の利子率=収益率+流動性プレミアム
貨幣の利子率=流動性プレミアム
土地・耐久財の利子率=収益率+流動性プレミアム
実物資本の利子率=収益率
消費の利子率=時間選好率+価格変化率
消費の利子率の定義に現われている「時間選好率」と「価格変化率」については,
説明が必要であろう。時間選好率とは,消費を将来に延期した場合に要求される我
慢の程度を表わす指標である。また,消費を将来に延期した場合には,消費の対象
となっていた財(やサービス)の価格が変化するかもしれない。価格変化率はこう
した価格変化に関わる概念である。
人々の最適行動を前提にするならば, r流動性プレミアム(貨幣の利子率でもあ
る)J と「収益資産(人々の流動性選好は満たさずに収益だけを生み出す資産)の
収益率」と「消費の利子率」は均等化する,と言う。
「人々は流動性プレミアム,収益資産の収益率,および消費の利子率を比較しな
がら,もっとも有利なように消費・貯蓄および資産構成を選択し,結局これら三
つの利子率がすべて等しくなるように調整するわけである:」
もし,流動性プレミアムが消費の利子率を上回っているならば,人はより多くの
流動性を保有しようと努め(従って,消費を減らし),その結果として,有効需要
が減少し,不況になる,というわけである。
2.3.3. 不況脱出の処方筆
(1) r不況の経済学j(1994, 2000)第 6章,第 9章
どうしたら不況から脱出できるだろうか?
もし,流動性プレミアムが消費の利子率を上回っていることが不況の原因である,
というのであれば,不況を終わらせるためには,①消費の利子率を上げる,②流動
性プレミアムを引き下げる,といったことのいずれか(あるいは双方)を実現すれ
ばよい。
消費の利子率を上げる手立てのひとつが,魅力的な新製品の開発である。また,
金持ちほど流動性保有願望が強いから,資産・所得の再分配によって, (社会全体
の)消費の利子率の引き上げが可能になる。
流動性プレミアムを引き下げる手段のひとつが財政政策である,と小野は言う。
小野によれば,財政支出には次のような 2つの効果がある。
1.財政支出は物価下落率を抑制することによって,消費を促進する(消費の利子
率を引き上げる効果)。
2.財政支出は物価下落率を抑制することによって,流動性プレミアムを引き下げ
る。
2に関して,次のように述べている。
「物価の下落はその分流動性の実質量を引き上げることであり,そのため物価下
落率は流動性を保有するさいの実質的な収益率である。したがって,政府の財政
支出増によってその物価下落率が抑えられるならば,そうした流動性保有の収益
率が低下することになるため,流動性保有が相対的に損になるわけである。」
「財政支出は有効需要を増加させ,不況脱出を可能にするかもしれない」と言っ
た方が,はるかに単純で,しかも,分かり易い。上述の財政支出に関する議論のま
だるっこしさは,小野流の議論のデメリット(のひとつ)である。
(2) r景気と経済政策j (1998)
『景気と経済政策』で,企業や家計の行動は景気循環を増幅させ
る傾向がある,と述べている。「社会にとって望ましいこと」と「個々の企
業や銀行(並びに家計)の行動」との聞にはギャップの生じることがあり,そのギ
ヤツプを埋めることのできる唯一の主体は政府である。
好況期には,政府の公共的な活動を抑制し,累積財政赤字の解消に努めるのが望
ましいにしても,不況期には,政府が公共事業を行って,余剰労働力や遊休資源を
有効に使った方が良いのである。
(3) r誤解だらけの構造改革j (2001)
今日の構造改革(論)の背後には新古典派経済学の考え方がある。
しかし,構造改革は不況脱出の処方議になり得ない。民間企業の構造改革が進め
ば進むほど,景気は悪化する,と論じている。
国の経営と企業の経営には大きな違いがある。企業は社員を解雇できるが,国は
国民を解雇できないからである。当然,民間の果すべき役割と政府の果すべき役割
は異なっている。
「好況期には民聞が労働資源を有効利用するが,不況期には民聞が使い切れない
分を政府が知恵、を絞って有効利用する。それができれば不況も怖くはないし,か
えって好況期に残した課題を解決する絶好の機会だとも言えるのである。」
今の日本に必要なのは,構造改革ではなく,人々の需要を大いに喚起する, T型
フォード型の技術革新である,と言う。こうしたものの登場によって,消費
の利子率が上昇し,消費が促進されるからである。
3. 小野説への疑念
3.1. マクロ経済学のミクロ経清学的基礎 VS.意図せざる悪しき帰結
(1) 叫分析
ケインジアンの用いる IS-LM分析は,人々の合理的行動のミクロのレベルから
の定式化を欠くが故に,論理的な矛盾を含む,と小野は言う。そこで,小野は,こ
れに代る,人々の合理的行動に立脚した π・1分析を提示している (W不況の経済学
一一魁るケインズj第 5章)。 π曲線は,財市場における市場の超過需要(供給)
率に依存して決まる価格変化率を考慮した,消費の時点間利子率を表わすものと定
義されているD他方, 1曲線は,与えられた消費水準の下で,流動性の供給量とち
ょうど等しい流動性需要を生み出すような利子率を表わすものと定義されている。
このような π曲線・ l曲藤を用いた π・1分析が, IS-LM分析のより良き代替物と
なり得ているのか否か,残念ながら,筆者には判定する能力がない。従って,筆者
は, iミクロ経済学的な基礎を備えたマクロ経済学の構築」を目指すという
試みの成否についての評価を,保留せざるを得ない。
(2) 意図せざる帰結
筆者は, rマクロ経済学と日本経済一一不況脱出の道すじj(法律文化社, 2002
年)で, i意図せざる帰結」という概念を用いて,ミクロとマクロをつなぐ議論を
展開した。
自らの利益のみを追求する個々人の行動(ミクロ)が,市場という見えざる手に なにぴと
導かれて,何人も意図しなかったような・経済発展という善き帰結(マクロ)をも
たらすことがある。こうした認識の体系化によって,アダム・スミスは,経済学の
礎石を築いたのである。
意図せざる悪しき帰結といったものも存在する。
3つの可能性をここに再現しておこう。
ある 1人の人物が消費を切り詰めて貯蓄を増やそうと試みた場合,その人の貯蓄
が増大して行く可能性が高い。しかし,そうした行動を採る人の数が増えれば増え
るほど, i消費需要の減少→有効需要の減少→雇用の減少→国民所得の減
少=貯蓄する能力の減退」といったことの生じる確率が高まって行く。人々の貯蓄
を増やそうとする意図は貯蓄能力の減退という「悪しき」帰結をもたらす可能性が
ある。
ある企業が賃金切り下げを行って,それを挺子にして自社製品の販売価格を切り
下げて自社製品の売上増を狙ったとしよう。こうした戦略が成功する可能性は高い。
しかし,そうした戦略を採る企業の数が増えれば増えるほど, i労働者の受け取る
賃金総額の減少 1国全体の消費能力の減退→消費需要の減少→有効需要の減
少→財・サービスの売上量の減少」といったことの生じる確率が高まって行く。
この場合も企業の意図は挫かれるかもしれない。
ある企業が債務超過に陥ったため,投資を抑制し借金返済に精を出すことになっ
たと想定しよう。債務超過に陥った企業にはこれ以外の選択肢はない。しかし,こ
のような行動を採る企業の数が増えれば増えるほど, i投資需要の減少→有効需
要の減少→財・サービスの売上量の減少=企業の借金返済能力の減退」といった
ことの生じる確率が高まって行く。
個々人の行動(ミクロ)がいかに合理的なものであったとしても,それらが積み
重なって生じてくる全体としての帰結(マクロ)は全く受容し難いものとなる可能
性が存在するのである。換言するならば,ミクロとマクロの聞には「断絶」が存在
する,ということである。もし,そうだとすれば,ミクロ経済学の基礎の上にマク
ロ経済学を構築するということが方法論的に可能なのだろうか,という疑問が生じ
てくる。但し,筆者にはこの疑問に対して解答を与える能力はない。そして,筆者
自身は「意図せざる帰結」という概念でやりくりして行こうと考えているし,そう
いうやり方も悪くはない,と考えている。
3.2. 流動性保有願望の非飽和性 VS.貨幣の価値貯蔵機能
(1) 流動性保有願望の非飽和性
2.3.1.で「流動性保有願望の非飽和性」という想定はかなり異常なものではない
か,と述べた。この想定の意味する所は, I貨幣=手段」の否定である。貨幣が手
段ではなくなる,というようなことが起り得るのだろうか?
『貨幣経済の動学理論一一ケインズの復権j (1992) の第 1章にある 3つの
文章を検討してみよう。
「①百万長者よりも億万長者,億万長者よりもさらにその上と,富に対する人間
の欲望は果てしなく続くのではないか。②一生を質素に暮らしながら,多額の預
金を蓄え,特に遺産を残したい親族もないまま死んでいった老人を,ただ非合理
だと笑うのは簡単である。しかし,その人にとってはそれが幸せであったろうし,
またそこに現代の貨幣経済における人間の本性が隠されているのではないであろ
うか。
「マルクスの『資本論』の第 1巻第 3章『貨幣または商品流通』においては,資
本主義の発展段階にともない,人間の経済活動の目的が,貨幣という交換手段を
媒介とした物の獲得から,ついには貨幣(あるいは資本)の蓄積そのものになっ
ていくことを論じている。」
「貨幣の直接効用に関する議論は,中でも特にジンメル…中略…の『貨幣の哲学J
において,最も詳しく展開されている。彼は(富としての)貨幣が使われなくて
もそれ自身として効用を生み出し,それが社会的な地位や力の源泉となっている
ことを,古今東西の社会的な現象を引きながら広範に論じている。J(傍点は,吉
j畢が付した。)
第 1の引用文にある②の老人の「支出」は確かに少ない。その老人は貨幣を「退
蔵」している。その「退蔵」の原因は当該老人の守銭奴的倒錯にあるのかもしれな
い。しかし,この老人がお金を使いたがらないのは,例えば,自らが要介護老人に
なった時に多額のお金が必要になるに違いない,という不安に由来しているのかも
しれない。もしそうだとすれば,貨幣はやはり「手段」としての地世を保っている。
公的介護制度の非常な充実によって,問題の老人の不安が解消されるなら,その老
人の消費は増えるであろう。
第 1の引用文にある①の金持ちの場合はどうであろうか?この金持ちが,守銭
奴的な倒錯の故に,貨幣を「退蔵」する,という可能性を否定することはできない。
しかし,この金持ちは,第 3の引用文にある,自らの「社会的地位や力」を誇示す
るために,稼いだ分だけ支出するかもしれない。例えば,豪邸の建設,自家用ジ、エ
ット機の購入,豪者なパーティーの開催…といった風に。
第 3の引用文で,貨幣が使われなくても社会的な地位や力の源泉となる,と述べ
られているが,筆者はそのような事態を容易に想像することができない。もし,貨
幣が人知れず「退蔵」されているなら,いかにしてそうした貨幣が社会的地位や力
の源泉となり得るのだろうか?
資本主義社会では,確かに,富という手段の自己目的化としか解釈できないよう
な現象が存在する。しかし,資本家が貨幣を「退蔵」する(即ち,貨幣を遊ばせて
おく)ということは想像しにくい。資本家は自ら稼いだ貨幣を,自己の経済帝国拡
張のために再投資する 『資本論』で描かれている資本家とはこのような資本
家である,と解釈するのが妥当ではなかろうか? r資本論』から「貨幣の退蔵」ゃ
「貯蓄>投資というケインズ的想念」を読み取ることは難しい,と筆者は考える。
守銭奴的倒錯に由来する貨幣の退蔵は存在するかもしれない。しかし,それは例
外的なものに止まるだろう。富の無限拡大に現をぬかす資本家は投資を行うだろう
し,社会的地位・力の保持を狙う金持ちは消費を行うだろう。そう考えると, i流
動性選好の非飽和性Jという想定は不適切な想定である。
(2) 貨幣の価値貯蔵機
2.2. (2)で,価格の硬直性のみによって不況を説明し尽くすことはできず,更なる
「何ものか」が必要である,と論じた。貨幣の価値貯蔵機能がそれに当る,と筆者
は考えている。
貨幣には,①価値尺度機能,②交換媒介機能,~価値貯蔵機能,という つの機
能がある。本稿との関わりにおいて論ずべきは,③の価値貯蔵機能である。貨幣に
は「価値が貯蔵」されているため,貨幣の受領者はその貯蔵された価値を用いて,
自らの望むものを,自らの望む時に,入手することができる。観点を換えるなら,
貨幣の支出は延期することができるのである。しかし,貨幣の支出延期が蔓延する
ならば,有効需要不足が起って,不況が招来されることになる。
3.3. 投資理論の欠落
(1) ケインズの利子理論と右下がりの IS曲線
ケインズは, r雇用・利子および貨幣の一般理論』の第22章で,景気循環の主原
因は投資の変動にある,という議論を展開している。ケインズは次のように述べて
いる。
「私の考えでは,景気循環は,経済体系における他の重要な短期的変数の変化の
からみ合いによって複雑にされ,激化させられることが多いけれども,資本の限
界効率の循環的な変動によって引き起こされるものであると見るのが最も適当で、
ある。」
これに対して,小野の「不況の経済学」において,主役を演じているのは「消費」
である。『不況の経済学一一蕗るケインズ』では,投資にも何ほどかの言及が為
されている 。しかし,それらを投資理論と呼ぶには無理がある。
かくして,筆者は,「不況の経済学」には投資の理論が欠落している,と
結論する。

rマクロ経済学と日本経済一一不況脱出の道すじJ(法律文化社, 2002
年)の3.2.2.(2)で,投資と利子に関するケインズの主張について論じた。ケインズ
の議論は次の 3点に要約できる,と考えている。
1.ケインズによれば,利子率が貯蓄に(従って,消費に)与える影響は無視して
も差し支えがない一一利子率が「貯蓄の量」に影響を与えることの否定
2.ケインズによれば,利子率は,将来消費に対する支配力の構成に専ら影響を与
える一一利子率が「貯蓄の構成」を決定するという主張
3.しかし,利子率が貯蓄需要と貯蓄供給の均衡化要因である,という観念を否定
しようとするケインズにとってすら,利子率の「貯蓄されたものの借入れ量」
への影響を,従って,投資への影響を無視することは不可能である。
そして,ケインズ理論の標準的な説明の道具である, IS-LM装置においても「利
子率の投資への影響」が組み込まれている。 IS曲線が右下がりの曲線として描か
れていることがそれである。
(2) ウイクセル,フィッシャー,ケインズ並びにレイヨンフ}ヴッド
古典派経済学者の内には,投資と利子率の関係を十分に解明し得た者はいなかっ
た,ということを,筆者は『貨幣理論と経済政策j (晃洋書房, 1999年)の第 1部
で論証した。
最初に投資と利子率の関係を明らかにしたのがウイクセルである。このウイクセ
ルの利子理論と,フイツシャーの利子理論と,ケインズの利子理論とは,その基本
構造を同じくする。
(3) マネタリスト
セー法則を論ずるに際して,それを恒等式(identity) として捉えるのか,均等
式 (equality) として捉えるのか,区別することが重要である,とブローグは述べ
ている。彼は,貨幣への超過需要 (excessdemand for money) が常にゼロである
状態,従って,常に人々が今期における自分達の現金残高ストックを変更したいと
思わない状態を,セーの恒等式 (Say’sIdentity) の成立している状態と定義する。
この場合には,貨幣は単なる交換手段であり,交換を覆う「ヴェール」に過ぎず,
供給は自動的に需要を生み出すことになる。そこでは,貨幣は「価値尺度機能」と
「交換媒介機能」を果すのみである。
しかし,貨幣には「価値貯蔵機能」も備わっており,貨幣保有者は,自らが望む
時まで,貨幣を手元に留めておくことができる。状況の変化に応じて,人々は自分
達の保有する現金残高ストックを増やしたり減らしたりする。従って,現実の「貨
幣経済」において,セーの恒等式が成立することはない。精々の所,成立するのは
セーの均等式である。価格変動と利子率変動を通じて,最終的に,貨幣の超過需要
がゼロになるのであれば,セーの均等式 (Say’sEquality) が成立し,市場には財
の超過供給に対する自己矯正力が備わっていることになる。
古典派貨幣理論は,本質的に二筋の考え方から成り立っている,とブローグは言
つ。
「古典派貨幣理論は,本質的に二筋の考え方からなり,その両者とも貨幣の数量
を価格水準に関係づける O すなわちその両者とは,カンテイヨンとヒュームとに
よって説明された『直接的メカニズム』と,はじめはソーントンによって述べら
れ,つぎにはリカードによってくりかえされた『間接的メカニズム』とである。
貨幣数量の増加はそれがまず需要に効果を与えるという径路を通じて直接に価格
に影響するというのが,古典派分析の常識であった。」
古典派経済学者の中でも,間接的メカニズムに気づいていた者もいた。上述のリ
ーントンとリカード,並びにジョプリンがそうである。間接的メカニズムに関する
議論は, i貸付市場における貨幣利子率Jと「商品市場における資本収益率」の関
係に注目する。ソーントンとジョプリンは,そして,とりわけ,ジョプリンは,貨
幣利子率と資本収益率の関係をベースにした投資理論の完成までほんの一歩という
所にまで至ってはいたが,最後の一歩が踏み越えられることはなかった。最初にそ
の一歩を踏み越えたのが,ウイセルであった。
さて,まともな経済学者で,貨幣経済において「セーの恒等式」が成立する,と
考えたりする者はいないで、あろう。筆者は,貨幣経済において「セーの均等式」が
成立する,と考える。つまり,価格変動と利子率変動を通じて,最終的に,貨幣の
超過需要がゼロになる,と考える。もし,このことを否定すれば,経済学の土台そ
のものが破壊されてしまう,と筆者は考える。
但し,上述の「最終的に」という点が重要である。それは 1分後なのか 1時
間後なのか 1日後なのか 1カ月後なのか 1年後なのか,それとも 10年後なの
か?
貨幣には価値貯蔵機能が備わっているため, 最終的にというのは10年後とい
うことになるかもしれない。そうなると, 10年間は「財の超過供給貨幣の超過
需要」という状態が続くことになる。
ところで,「流動性保有願望の非飽和性」という想定は, iセーの均等式」
と両立するのだろうか?両立しないのではないか?
3.3. (1)で,小野の「不況の経済学」には投資の理論が欠落している,と述べた。
勿論, r不況の経済学一一匙るケインズ』の, 80-83頁, 90頁で述べられているこ
とを用いれば,ブローグの言う「間接的メカニズム」を完全に説明できる。また,
小野は「消費の利子率」という概念を導入することによって,マネーサプライと支
出を連結するマネタリストとは,明らかに一線を画している。
それにもかかわらず,消費と投資をひとくくりにして論じるという点,そして,
ケインジアンが不況克服の一手段として提示する「金融藤和による投資の喚起」と
いうことへの言及が欠如しているという点において,ウイクセルやケイン
ズよりも,フリードマンに似ているように見える。これは,全く「意図して
いなかった帰結」であろう。

‹7›

インフレーション

2016年1月28日,29日に開催された政策委員会の金融政策決定会合にて,日本銀行は,「マ
イナス金利付き量的・質的金融緩和政策」)の導入を決定し,その数ヶ月後の9月20日,21日
に開催された政策委員会の金融政策決定会合にて,「長短金利操作付き量的・質的金融緩和政策」
の導入を決定した。こうした一連の金融緩和政策は日本銀行が目標に掲げている2%の物価安
定を早期に実現させるための政策手段として始めて日本で導入された。長短金利操作付き量的・
質的金融緩和政策はマイナス金利付き量的・質的金融緩和政策を強化させるための政策であり,
マイナス金利付き量的・質的金融緩和政策開始から現在(=2018年1月11日)に至るまでマイ
ナス金利政策が継続されている。マイナス金利政策は,デンマーク(2012年7月,2014年9月),
スイス(2014年12月),ユーロ圏(2014年6月),スウェーデン(2015年2月)といった欧州地
域ではすでに導入されている政策である。これらの国々では国内景気を回復させることを主と
していたのではなく,自国通貨高を防ぐことを主として導入している。こうした過去に導入し
たことのない金融緩和政策を日本銀行が導入してきたのは今回が初めてではない。資産価格バ
ブル経済崩壊後,日本銀行は基準金利である公定歩合(現基準割引率および基準貸付利率)の
引き下げや政策金利である無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導目標水準の引き下
げを数度実行し,短期金利の水準をほぼ0%近くまで低下させ,その低下幅がほとんど残され
ていない時点の1990年代後半から2000年代前半にかけて,ゼロ金利政策(1999年2月から2000
年8月まで)と量的緩和政策(2001年3月から2006年3月まで)を実行した。ゼロ金利政策
と量的緩和政策は過去に前例がなく,世界に先駆けて日本銀行が採用した金融政策であった。
通常の金融政策(伝統的な金融政策)では短期金利を変更させることで金融緩和や金融引締を
行うが,金利がゼロ制約に陥っている状態では通常の金融政策が行えないため,資産効果を通
じた波及メカニズムに期待することになる。こうした伝統的な金融緩和政策が行えなく,流動
性供給による効果に頼る政策のことを,一般的に「非伝統的金融政策」という。非伝統的金融
政策は3つに分類される。1つ目は,将来の予想短期金利の経路や将来の金融政策に関する市
場の予想をコントロールする,「時間軸政策」である。2つ目は,中央銀行のバランスシート
の規模を拡大する,「量的緩和政策」である。3つ目は,中央銀行が特定のリスク資産を購入
する,「信用緩和政策」である。
日本銀行は2006年になると,先行き経済・物価情勢において,物価の安定や持続的な経済成
長が見込めると判断し,量的緩和政策を解除することとなった。しかし,米国のサブプライム
(住宅)ローンの不良債権化に端を発する世界的な金融・経済危機が米国や欧州を中心とした
金融市場に高い流動性リスクや信用リスクを引き起こし,さらに,2008年9月のリーマン・ブ
ラザーズの破綻が起きたことで信用不安がより一層助長されることとなった。その結果として,
世界的な大不況を招くこととなり,再度,日本銀行は金融緩和政策へと舵取りを行う必要が出
てきた。2010年10月には包括的な金融緩和政策,2013年4月には量的・質的金融緩和政策,
2016年1月にはマイナス金利付き量的・質的金融緩和政策,2016年9月には長短金利操作付き
量的・質的金融緩和政策の導入が決定された。1990年代初頭に資産価格バブル経済が崩壊し,
政府による経済対策や日本銀行による金融緩和政策が実行されてきたものの,好景気が実感で
きるほどの回復を見せているとは言えない。
短期金利の低水準下での金融緩和政策の有効性に関して,「流動性の罠」の問題がある。
2)商業手形割引歩合ならびに国債,特に指定する債券または商業手形に準ずる手形を担保とする貸付利子
歩合に関しては,1995年9月に0.5%まで引き下げられることとなった。
3)米国のサブプライム(住宅)ローンの不良債権化の仕組みやそれに端を発する世界的な金融・経済危機,
そしてその後の各国中央銀行の対応策に関しては,地主他(2012)が詳しく説明を行っている。また,英(2013,
2014)において,欧米の非伝統的金融政策の政策効果の検証も行っている。
4)長い平成不況に対して「失われた10年」,現在では,「失われた20年」とも表現されるようなった。バブ
ル経済崩壊後から現在にかけて,IT景気,いざなみ景気,デジャブ景気といった景気拡大期を経験してい
るものの,景気回復に対する実感がわかないという意見も聞かれたが,2012年12月以降の景気対策(アベ
ノミクス)により,2013年以降,円安誘導や株価の上昇などにより,やや景気回復の兆しが出てきている
との意見も聞かれる。
5)IS-LM分析で流動性の罠に陥っている場合には,貨幣供給量を増加させる金融政策は国民所得水準(GDP)
を増加させることはできず,貨幣需要を無限大に増加させることになる。そこで,金融政策を実行するの
ではなく,財政政策を実行することが有効的な景気刺激策となる。ただし,当時の日本では財政赤字が累
積されていることもあり,金融緩和政策手段が主に選択されることとなっていた。IS-LMモデルでの分析
と同じことが,IS-MPモデルでの分析においてもいえる。しかし,財政赤字が大きく累積している場合には,
近年の期待インフレ率と流動性供給に関する研究(英)
流動性の罠に陥っている状態,ここでは名目金利が0%である場合,フィッシャー方程式から,
実質金利が負の期待インフレ率と等しくなる。1990年代前半以降の日本経済では低インフレ
もしくは,デフレが起きていたのでデフレ期待が形成されることとなり,実質金利が高くなる
状況が生じていたと考えられる。そこで,有効な経済政策として,デフレ期待からインフレ期
待に転換させる政策の必要性が議論された。Krugman教授は日本経済が不況から脱するため
に期待に働きかける政策が有効であると最初に述べた人物である。Krugman教授の主張は正
のインフレ期待を起こし,負の均衡実質利子率を達成させることである。また,Svensson
教授は,流動性の罠から脱出する方法として,物価水準目標を導入することや物価水準目標が
達成されるまでの間円安での為替ペッグ制の導入とゼロ金利政策の継続を掲げている。日本
銀行ではこうした考え方を踏襲し,市場に大量の資金を溢れさせることでデフレから脱却する
ことができ,それが日本経済の回復・成長やインフレの実現につながると信じ流動性供給を通
じた金融緩和を継続している。
本稿では,近年,日本銀行が市場に大量の流動性を供給することでインフレ期待を醸し出す
効果が得られているのか,いないのかを計量経済学の手法を用いて検証する。研究対象期間は
量的緩和政策が開始された2004年から直近のデータが入手できる2016年までとする。最初に,
期待インフレ率とマネタリーベースの関係をグランジャーでの因果性検定を用いて検証する。
次に,マネタリーベースの増加から期待インフレ率への波及メカニズムを分析するために,イ
ンパルス応答関数を用いて検証する。
本稿の構成は以下のとおりである。Ⅱ節で,主要な先行研究とそれに関係する内容を説明する。
Ⅲ節で,グランジャーでの因果性検証や波及メカニズムに関するVAR (Vector Autoregressive)
モデル分析の説明を行う。Ⅳ節で,分析に用いるデータの説明を行う。Ⅴ節で,分析結果の解
釈と政策インプリケーションを説明する。Ⅵ節でまとめとする。
Ⅱ 先行研究の紹介
1990年代後半から2000年代初めにかけて,日本において流動性の罠に陥っているか,否かの
非ケインズ効果により,財政政策の効果が限定的になる。1990年代後半以降の日本で流動性の罠に関する
研究と貨幣需要に対する金利弾力性の値の大きさを推計する研究としていくつか存在する(Miyao, 2002;
藤木・渡邉, 2004; Bae et al, 2006; Maki and Kitasaka, 2006; 宮尾, 2006; Inagaki, 2009; Nakashima, 2009;
Nakashima and Saito, 2012; 藤木, 2014; 英, 2015)。全般的に貨幣需要関数の推計(貨幣需要に対する金利弾
力性と所得弾力性の値の推定)を行う研究には,共和分分析の手法が用いられている。
6)フィッシャー方程式とは,実質金利=名目金利-期待インフレ率であり,名目金利が0%であれば,実
質金利=-期待インフレ率となる。
7)Krugman (1998a, 1998b)を参照。
8)詳細に関しては,Svensson (2005) ESRI国際カンファレンス:「日本経済の持続的成長のための政策選択」
での報告論文『Monetary Policy and Japanʼs Liquidity Trap』を参照。
関西大学商学論集 第62巻第4号(2018年3月)
議論が起こり,もし,流動性の罠に陥っている場合には,貨幣供給を増大させる金融緩和政策
を日本銀行が行ったとしても,その効果は限定的になることが予想される。当時,政策金利で
ある無担保コールレート(オーバーナイト物)の水準はほぼ0%までに引き下げられ,名目の
短期金利が非負制約に陥っていた。これにより,伝統的な金融緩和政策では景気刺激策になり
にくく,さらに,財政赤字も膨らみ,財政政策による効果も期待できない状況であった。こう
した中,景気改善策として,より一層の金融緩和を行い,景気回復を実現するための手法とし
て,非伝統的金融政策が模索されることとなった。
以下では,名目の短期金利が0%水準までに低下した場合の最適金融政策に関する研究を紹
介する。Krugman (1998a, 2000),Woodford (1999a, 1999b),Reifschneider and Williams (2000)
は中央銀行が将来の金融緩和を約束し,それによって現時点のインフレ期待を高め,名目の長
期金利を低下させることを提唱している。Krugman (1998a, 2000)では貯蓄超過を是正する
ために,短期の名目金利を0%にし,インフレ期待を十分に高くすることで,実質自然利子率
と等しくなる実質金利を実現させることの必要性を述べている。また,15年間にわたり年率4
%のインフレ率を続けることで流動性の罠から脱出できるとも述べている。そのためには,あ
る程度大量の資金を供給し続けなければならないと主張している。Woodford (1999a)では自
然利子率が低下するショックが1期であったとしても,短期金利の低下をある程度継続する公
約を中央銀行が行うことが最適であることを示している。Woodford (1999b)では0%の金利
水準を一定期間継続すると公約することの重要性を示している。Reifschneider and Williams
(2000)ではゼロ金利下での金融政策ルールとして,拡張版テイラールールを提示している。
拡張版テイラールールではモデルから計算される金利水準が0%を下回る状況になった時に,
その水準の累積値を計算しておき,景気回復し,ゼロ金利から抜け出すことができた時に金利
を上昇させるのではなく,その累積値分だけ下落させておくという考え方である。上記と関連
し,量的緩和政策の効果を研究する論文もいくつか存在する(Clouse et al, 2003; Eggertsson
and Woodford, 2003; Bernanke and Reinhart, 2004; Bernanke, et al, 2004; Curdia and
Woodford, 2011)。Eggertsson and Woodford (2003)とCurdia and Woodford (2011)は量的
緩和政策に対して懐疑的見解を持ち,Clouse et al (2003),Bernanke and Reinhart (2004),
Bernanke, et al (2004)は名目の短期金利が0%であったとしても,マネタリーベースを増加
させる政策に効果があると主張している。これらは相反する結果となっている。これらの結果
に対し,本多他(2010)や本多・立花(2011)ではインパルス応答関数の手法を用いて株価チ
ャネルの存在を肯定しているものの,インフレ期待に対する分析は行われていない。そのため,
インフレ期待という観点から政策効果があるのかを本稿では検証することにする。また,非伝
統的金融政策の期待される効果として,「時間軸効果」,「ポートフォリオ・リバランス効果(資
9)渡辺(2000)とJung, et al. (2005)は最適解の歴史依存性に着目して流動性の罠に陥っている場合の政策
分析を行い,日本銀行のコミットメント政策に関する評価も行っている。
近年の期待インフレ率と流動性供給に関する研究(英)
産再配置効果)」,「シグナル効果」,「金融システム安定化に関する効果」が存在することも列
挙しておく。
2000年以降の日本の貨幣量と物価の関係に関して,英(2015)ではフィッシャーの交換方程
式を用いて,貨幣残高を増大させても,貨幣流通速度の下落により,物価上昇につながらなか
ったことを指摘している。貨幣量と物価の関係に関しては長く議論されてきている問題であり,
いくつかの先行研究が存在する(Lucas, 1980; Friedman and Schwartz, 1982; McCandless and
Weber, 1995; Gerlach and Svensson, 2003; Gali. et al, 2004; Surico, 2009)。Gerlach and
Svensson (2003)とGali. et al, (2004)では国内の貨幣量の変化は国内のインフレを予想する
のに適していないと指摘している。Surico (2009)では,Gerlach and Svensson (2003)と
Gali. et al, (2004)が指摘している問題に対し,米国のインフレ期待とG7の貨幣量から作成し
た流動性を用いて貨幣量と物価の関係を検証した結果,グローバルな流動性は米国のインフレ
期待に影響を与えることを報告している。

‹8›

デフレーション

オーストリア学派は狭義には 19 世紀後半のオーストリアで生まれた学派である。始祖メンガ
ーはすでに 1870 年代におカネを財の一つと捉えていたが,ミーゼスはいまから約 1 世紀前の
1912 年に出た『貨幣と信用の理論』でおカネにも限界原理を適用し,それを定数ではなく変数
として経済モデルの中に組み込む体系を練り上げた。これにはどういう意味があるだろうか。世
の中にたった一つだけ,どんな商取引にも登場する財がある。おカネである。おカネは財(サー
ビスを含む)の取引につねに影のように寄り添っているから,その変化は必ず財の方にも影響す
る。だから,おカネをモデルの中に組み込まないと,原理的に経済全体を説明できなくなる。お
カネを視野に入れるという手続きを踏むか踏まないかは,経済学者が繰り広げるさまざま議論の
すべてに影響を与えないではおかないので,とても大切な問題である。それなのに,一般の経済
学ではおカネをモデルの外に放逐して実物財の取引のみに注目する傾向にあり,これをもって実
物的で健全な経済学だと信じているようだが,他方で隔離されたおカネについては政府の操作を
容認している。けれども,そんなことをすればそのおカネが実物経済を撹乱するに決まっている
ではないか。
むろん,マネタリストのフリードマンや彼を後継したテイラーなどは中央銀行が所定のルール
に従っておカネを操作するよう求めている。ところが,驚くべきことに彼らは新たに人為的に注
入されたおカネが生産過程にどう入っていって実物経済にどう影響するかについて沈黙している
のである。先に「操作」と述べたが,さすがに無際限なインフレを支持する人などいないから,
適度のインフレ支持者を中インフレ派,物価安定論者を小インフレ派とする。ルールに基づく操
作を求める現代の経済学者たちはそのいずれかだ。彼らは自分が求めているのは適度なインフレ
にすぎないと主張したり,インフレ幅の違いを強調する論文を発表してもいるが,結局は「イン
フレ主義者」として一括りにできる。いや,すべきである。
夜の街で 2 人がもめている。曲がったことが嫌いな通行人が,車に乗ろうとしている酔っぱら
いに注意しているのだが,酔っぱらいは「ビールを少し飲んだだけだから車を運転しても構いや
しないだろ」と叫んでいる。通行人はダメだと注意したいのだが,何しろ相手は酔っているから
ヘタに強圧的になるのも考えものだ。穏やかにたしなめようとしたら「あっちの日本酒も飲んで
るヤツには何も言わないのに,オレにばかり小言かよ」と機嫌が悪い。言うまでもないが,シカ
ゴ学派がこの酔っ払い,ケインズ派があっちの日本酒も飲んでるヤツだ。しかし,小インフレ派
が中インフレ派をいかに非難してみても,小インフレだけでも経済は十分酔っ払えることはすで
に論証されている。誰によってか? この通行人だ。彼は非インフレ派になる。それは何学派か
って? オーストリア学派だ。通行人は 2 人の酔っぱらいがまだ若者だったころからずっと上の
ことを説き続けているのだが,現代の大学もジャーナリズムも,年寄りはアタマがカタくて若者
154( 456 ) 同志社商学 第65巻 第4号(20
が世界を変えるなどという淡い夢に浸っているからか,この説にはきわめて冷淡だ。しかし,年
寄り石アタマ説は本当に正しいのだろうか。
デフレをテーマとする本の説明をするのにインフレの話から切り出してしまった。しかし,失
敗なわけではない。その理由はこの先を読めばおのずと明らかになるだろうが,あらかじめ簡単
に説明しておこう。実はインフレこそデフレをもたらす真の原因である。なのに,現代の経済学
はそのメカニズムを解明できていない。そんな経済学しか知らずに経済を診断するから,多くの
論者たちが判で押したように見当はずれな批判や対策を持ち出すことになる。結局,法令貨幣制
のもとでは,デフレの話はインフレから切り出すことのみが正しい。
そうしない診断がいかにトンチンカンな結果をもたらすかを著者が詳しく検討しているのが,
冒頭に置かれた高橋洋一『日本経済のウソ』に対する分析である 3
(1.1)。これはデフレ悪玉論を
斬った一連のブログ記事をまとめたもので,著者の経済学上の立場を知るのにもってこいだ。
デフレ批判者は,しばしばデフレを病気のように扱う。極端な例では,勝間和代という評論家
はデフレを「ガン」だとはっきり書いているらしい(1.2)。経済史に関する無知ぶりを選挙街宣
車で街の隅々にまでふれて回るような行いである。著者によると,アメリカの中央銀行に当たる
連邦準備のスタッフが過去 1 世紀分遡ってデフレと景気の関係を調べたところ,デフレのときは
たいてい好況だっただけでなく,不況の時はたいていインフレだったそうだ(1.2)。つまり,話
の前提自体が事実に反するのである。話の腰が折れているとはこのことだ。ところが,著者によ
れば高橋も同じ思い込みに囚われている。
実を言うと,問題の背景には冷静なデータ分析というよりもいくつかの理論的予断があり,し
かもそれが説明なく導入されたうえに,発言者たちはそれと実際のデータとのずれには沈黙を保
っているようだ。本というものは,あわてて書くものではない。
第 1 に,高橋によると販売量を増やしても単価が下がるので売り上げは伸びないそうだ
(1.1)。しかし,これはいきなり言い出すような話ではない。経済学の教科書の初めの方に決ま
って出てくる「弾力性」をめぐる議論によると,単価の低下率以上の率で販売量が増えれば生じ
ない問題であるし,それに潜在顧客の人口は,企業が海外進出をすれば十分伸びる。日本企業の
拙劣なマーケティングでは商圏拡大など無理だという深い含みがあるのかもしれないが,かなり
お粗末な議論なのは明白だ。
第 2 に,この話は「デフレ・スパイラル」をめぐる予断にも関係している。著者も述べている
が,デフレ局面に入った経済では確かに物価も下がるがコストも下がるので,物価低下だけに注
目して企業経営に逆風が吹きつけていると騒ぐのはおかしい。もしコストの大半を占める賃金が
硬直的だと言うのなら,それは労組や労働関連法規のせいであって,法体制が経済に順応できて
いないだけの話である(1.1)。
第 3 に,金本位制に対する敵意である。その理由は,金本位制がデフレ圧力となって経済を押
し下げたという根拠なき断定である。これが端的に表れるのは,本書が取り上げた本の書き手た
ちの大恐慌観においてである。安倍政権になって憲法改正論が政治日程にのぼってきたとき,憲
法は国家の暴走に歯止めをかけるための命令集だという見解が改めて表明され始めたが,西洋の
立憲主義や共和主義の思想史に照らすと前からそうだ。ただ,その経済版が実は金本位制である
ということを,驚くべきことに経済学の専門家たちでさえほとんど理解できていない。金本位制
の枷が大恐慌をもたらしたという中小インフレ派の見解を無批判に信じているからだが,これは
歴史的に見てもおかしな見解である。大恐慌は 20 世紀のアメリカで起こった経済史上の大事件
であったが,19 世紀を振り返ると,恐慌はかなり周期的にあったものの,これほどひどい不況
をもたらすことはなかった。それは,国際的には金本位制でアメリカも銀を本位としていたから
であるとともに,そもそもアメリカには中央銀行なんてなかったので大したインフレが起こせな
かったからだ。上げ波が高くなると下げ波もひどくなる。1913 年の連邦準備創設とは波高拡大
装置の導入であった。それが大恐慌のような惨劇をもたらした。先の評論家などは金本位制を
「とんでもないしくみ」と呼んでいるらしいが(2.1),一から十まであべこべだ。
この点,著者の歴史観はきわめて冷静である。それは,著者がミーゼス,ハイエク,ロスバー
ドなどの基本的に論証的な理論経済学に依拠するからである。論証を欠くインフレ主義の吹聴者
に対する著者の批判は,そのおかげで冷厳なだけでなく示唆的にもなっている。
昔の政治家や官僚は,現在の同じ職業の連中に比べ,市民の財産権を尊重する意識を多少
強く持っていた。いや,持たされていたというべきだろう。金本位制を放棄するというの
は,金との交換を前提に貨幣を保有してきた市民との取り決めを破るということで,今でい
えば,電機メーカーが派遣従業員の給与を現金で払うと契約していたのに,業績が悪くなっ
たから乾電池で払うと言い出すようなものだ。そんなことを簡単に言い出せるはずはない
し,言われた方もたまらないだろう。だから金本位制の維持を非難するのは,あえて厳しい
言い方をすれば,経済危機になったら最低限の人権などどうでもよいといっているに等し
い。(1.1)
著者は私有財産権の神聖を別の個所でも説いているが(6.3),これは西洋で中世以来発達して
きた立憲主義の考え方に照らしてとても正しい。それによると,政治家や官僚,あるいは王様で
すら,国民との契約で法に定められた仕事をする人間,いわば国というホテルの支配人のような
ものである。契約を破ればクビだし,王様の場合はローマ教会から破門されるから,神に任命さ
れて国を治める派遣社員とすら考えられ 4
る。
だいたい,19 世紀にはデフレが悪だとする思想がない。それは景気循環が 20 世紀ほどひどい
結果を生まず,ふだんからいわば「マイルド・デフレ」の状態で順調に経済が成長していたから
────────────
4 この点についての筆者の考えは次の論文で展開している。村井明彦「マリアナの貨幣論──貨幣を操作
する暴君は王にあらず」,田中秀夫編『野蛮と啓蒙──経済思想史からの接近』京都大学学術出版会,2014
年,第 2 章。
である。これは金や銀などの実物財(commodity)を取引における建値の際の標準(standard)と
する商品本位制(commodity standard)が実施されていたためである。この実物財とは金銀であ
り,それが本当のおカネであった。ふだんはセキュリティのためにそれを銀行に預け,銀行は引
換証としてお札を発行していた。だから,市民が銀行の窓口にお札を持って行けば銀行は当然そ
れをもとの貴金属に交換しないといけない。できなくなれば,その銀行は倒産である。だから銀
行はやたらにお札などを増やすことはできない。ところが,現代ではおカネにこの「交換性」が
ないから,銀行は適当におカネを増やそうとするし,銀行業界の組長に相当する中央銀行は銀行
におカネを増やさせようとする。インフレの規模が大きくなったのは当たり前だ。こんな基本的
なことすら意識せずに経済学の専門家のような顔をする人たちが大学やメディアをのし歩く時代
になったのである。
かつて経済人類学者ポランニーは大恐慌後の混乱を見て未開社会を賛美してみせた。西洋の長
い思想史の中では,彼の思想は文明による人間の堕落を告発するルソー主義の焼直しにすぎな
い。こんなありふれた思想に,官僚出身の中野剛志なる人物は魅かれているらしい(4.3)。だ
が,ポランニーは人類学者であって,大恐慌の原因を戦争や外国に帰すなどいかにも舌足らずな
説明でお茶を濁しているくらいだから,経済学では専門家とは言えない。ところが,この手の反
近代主義者は恒例行事のように決まって金本位制を激しく罵る。そして,勉強不足ゆえにその実
像にはふれもしないままインフレ・キャンペーンにいそしむのだ。金本位制を「野蛮の遺物」な
どと物知り顔で語ったケインズもその有力な担い手の一人だ。おカネを誰か特定の人間が好きな
ようにいじれないしくみだから経済に大混乱が起きなくてすんだのだ。逆に,いじれるようにし
たから大恐慌や世界大戦が起こせたのだ。どちらが野蛮かなんて子供でもわかる話ではないか。
金本位制は「野蛮の遺物」と揶揄されることもあるが,とんでもない勘違いだ。野蛮なの
は政府であって,金本位制とはその野蛮な力から文明を守るための叡智というべきだ。
ちなみに,「揶揄する」とはバカにするという意味である。野蛮を克服して啓蒙が到来したと
いうより,啓蒙を離脱できたことで野蛮が放し飼いになったのだ。しかし,現代のインフレ主義
的経済学に従ってものを考えようとすると,こうしたことは見えてこないしくみになっている。
理由は簡単だ。いまの大学を支配している経済学が,社会主義者ケインズの深い影響下にあるか
らだ(2.4, 2.5)。
Ⅱ 日本の経済学的知性への基本的違和感
本書を読んでいて思うのは,著者が日本の経済学的知性に対してかなり基本的な所で違和感を
抱いているらしいということである。
日本に来た外国人が書き残したものを読むと,日本人は知的好奇心が旺盛でよく学ぶという点
書評:木村貴『デフレの神話』(村井) ( 459 )157
では,昔もいまもほとんど意見が一致している。フランシスコ・ザビエルは日本人があまりにし
つこくつきまとって質問攻めにしたと述べているが,このことを彼の手紙から紹介したピータ
ー・ミルワードが言うには,そうやって外人を珍しがるのはいまも同じだが,実は質問の答えに
さらに食い下がる者はほとんどいないそう 5
だ。あっさり言うと,ものを知りたがるくせに考えよ
うとはしないのだ。だから,授けられた知識につゆも疑いを抱かずに営々とそれを護持し続けさ
せたら世界一かもしれない。しかし,西洋的常識ではこれは「知的」であることとは何の関係も かみ
ない。それはむしろ,権威に弱く,お上に従順な国民性を支える消極的な精神的態度である。わ さはい
が国では権威主義は集団主義と野合し,強い者が弱い者を理不尽な論理で差配し,いじめようと
する。そして,それに疑問を感じたり抵抗することを極端に嫌う。しかも,いじめられている方 つぶや
が。そういう場面に立ち会えば「人は哀しいものですね」と呟かざるをえない。これでは知性の
かけらもないと揶揄されても文句は言えない。
欧米との経済格差が大きすぎるとともに国内市場と人口が順調に拡大していた昭和のころまで
は,こうした特性が幸い経済成長をもたらしえた。だが,いまやそれは弥生時代の出来事と変わ
りはしない。それなのに,官僚の意識が変化に対応できていないことは,西洋では前から非体系
的だと批判を浴びているケインズ風のマクロ経済学を「エリートの学問」などと言い放ち,それ
で「自国民を食わせる」と大見得を切るような官僚上がりの評論家の姿勢に現れている(4.5)。
官僚も国民から行政を請け負うバイトであり,徒食の民である。どう見ても国民が税金で彼らに
食わせているのであって逆ではない。いまだに不況になったら公共投資を叫ぶケインズ‐ナチス
型の政策に彼らが固執した結果,増税で私有財産の一部を没収されれば,私たちは「公共窃盗」
に与れる。もし,このとき国民が晴れて官僚に一杯食わせてもらえると主張するなら,それは確
かに認めてもいい。
「レジーム・チェンジ」の語は半ばオバマからの借用であろうが,中身は要するにリフレの推
進らしい。「恐慌を克服するためには中央集権的な権力が必要」だと中野はもらす。権力か。正
直なのは結構だが,それが恐慌と不況の生みの親なのだ。さもしい本音が国を憂える誠実さを丸
ごと不実色に塗りつぶしている。「リフレ主義の危うさを示す極めつけである」(1.5)。アナクロ
ニズムも度が過ぎるとはた迷惑だ。本当に必要なのは昭和的価値体系というレジームからの脱却
と国の未来を託せるだけの雄大な展望である。昭和期の国家主導主義は収集日にゴミ捨て場に置
いて帰ることだ。ふつうの日本人がもっと自己主張し,個人意識に目覚めることが先決だ。集団
主義の殻の中でガラパゴス的進化を探るのをやめてグローバル市場で堂々と競争し,国民からく
すねた補助金ではなく実力で生き残ることだ。それが,そしてそれだけが,古代から 21 世紀ま
でしぶとく生き延びている歪んだレジームを変える力を持つ。未来を切り開くのは自由な企業活
動だ。それを学ぶ学問が商学で,経済学はこれを下から支える基礎理論の体系である。
Ⅲ 理論の復権
そういう体系が,本書で批判された書き手たちにはまったく見られない。それを修得すること
は,現実経済を分析する者にとって最も基本的な事柄であるはずだが,実は最も難しいことでも
ある。本節では,オーストリア経済理論の体系,とりわけくだんのデフレと関連する部分を簡略
ながら説明して現代日本の経済論壇における想像力の貧困をえぐり出し,デフレの真因を明らか
にする。
A オーストリア学派景気循環論とデフレ
最初に述べたが,デフレはいきなり起こらない。法令貨幣制のもとでは,それはインフレの結
果起こったバブルの後遺症として姿を現す。デフレの対策を立てるにはその原因を知ることが必
要だが,上のような事情からその前にインフレやバブルとは何かをまず理解しなければならな
い。以下,オーストリア学派景気循環論(Austrian Business Cycle Theory : ABCT)を一般向きに
解説して,インフレからバブルをへてデフレに至る一連のプロセスを見てみよう。
バブルの最大の要因は中央銀行の過度の利下げによる貨幣インフレである。このとき貨幣イン
フレが物価インフレをもたらすか否かは重要ではない。あるいは,実を言うともたらさない方が
バブルの根が深くなる。人々は経済が安定成長していく様を見て,この状態が永続するかに夢想
する。メディアや学者も同様の見解を披露し,権威筋からお墨つきが与えられる。しかし,新規
に注入されたおカネは経済の中に一様に行き渡るわけではない。そこにはむしろ,はっきりと差
別がある。基本的に大企業が有利である。部門別には高次財(消費段階から遠い財)の市場が先
に膨張する。これは,夕飯のしたくをするときにまずお米を洗って水につける作業から着手する
のと同じ理由による。つまり,人間はいちばん時間がかかる作業から始める。一般人は給料が増
えていくとおカネの額あたりの主観的貴重さが落ちていくから消費にいそしむ。これは「時間選
好が高い」(将来よりいまを選ぶ)状態とも言われる。これは本来貯蓄の低下から金利に上げ圧
力を加えるが,このとき中央銀行が低金利を演出すると,経済全体としてはかなり不健全な状態
になる。おカネを人為的に増やすのは簡単だが,資源まで人為的に増やすことはできない。新規
のおカネを得た主体から既存の資源を入手し,それを他の資源と組み合わせて生産することで利
益を得ようとする。しかし,資源自体は増えていない。だから,どこかの段階で何らかの資源が
ネックとなって生産計画の壮大な夢から目が覚める日が必ずやってくる。株の暴落,住宅価格の
急落など,血の気を引かせる暗転はふつう資産市場で生じる。
いまや資源の価格が暴落し始め,浮かれていた企業は青ざめながら原価割れ承知で資源を二束
三文で売り飛ばして現金を確保するしかない。こうして,実需要因から物価が低下し,コストも
また低下していく。この状態を見て政府はどうするであろうか。放任すれば物価は十分下がって
ゆくだろう。しかし,大恐慌のときは会社が次々と潰れるのを見て物価低下の阻止に走ってしま
ったのだ。こうなると事情は違ってくる。物価やコストが自然な水準に比べて高止まりする中,
パニック直後はまだ高いままだった人々の時間選好も次第に落ちていく。つまり,もうものを買
わなくなる。実需要因から物価は低下するだろう。こうして「デフレ」が舞台に姿を現す。
さて,この現象を恐れて中央銀行がリフレ・マネーを注入すればどうなるか。それは一部の企
業や部門に向かい,バブルのときとも少し似た無駄な投資が行われるが,目立った GDP の伸び
はないだろう。消費が冷えこんでいる中では投資は十分回収できないからである。新規のおカネ
にアクセスが効く一部の企業の社員は給料が増えるだろうし,増えなくても物価が下がっている
から実質ベースで見るとやたら金持ちになる。やがてメディアや学者はこれを特徴づけて「格差
社会」という言葉をつくるだろう。大企業の社員の羽振りがいいのは努力よりも単に社会的ポジ
ションのおかげにすぎないことには,市民もうすうす感づいている。だから,そこにわが子を入
れるために有名大学に入れようとし,そのために有名高校,有名中学,有名小学校,果ては有名
幼稚園に入れようとするだろう(低位の学校ほど高次財市場に似ている)。しかし,赤の他人を
一定の公平な基準で選別するには様式化された手法を確立するしかない。こうして「お受験」文 じ
化の地が固まるが,それで選別された学生たちは,ザビエルから数えて五百年一日のごとく,知
識欲はあっても思考力には乏しいだろう。よく覚えた。だが,ほとんど考えなかった。メディア
はそんな人たちを「おバカ」ともてはやすだろう。
リフレ政策の起源は大恐慌に見舞われたアメリカにある。フーバーは物価・賃金統制を敷いて
それらを下げ止まらせ,ローズヴェルトになると大々的な公共投資を実施し,意味があるかどう
か不明のまま政府が資源を徴用した(3.6)。経済の実績を測る指標として GDP が重用されるが,
そこには戦争向けの武器なども計上されるから,国民生活の質の向上がなくても「経済回復」が
実現したという神話が語られる結果になる。しかし,太平洋の向こうの無謀な新興国を打ち負か
したとはいえ,戦争の中で人々は窮乏生活を強いられている。1920 年代の生活水準は実質的に
1950 年代まで回復しなかったと見るのが正しい。現代日本の「失われた 20 年」は「ver. 2.0」で
ある。「Great Depression」は「大恐慌」と訳されるが,この「Great」には「Long」の含みもある
から,この英語は日本語では「長期不況」に最も近い。それが「Great Panic」にすぎなかったの
なら,アメリカ人がこの事件に大きなトラウマを感じることもなかっただろう。
先に高次財の話をしたが,GDP は基本的に最終消費段階まで到達した財の取引総額の統計だ
から,高次財市場は守備範囲外である。だが,日本のような先進国では,高次財市場を含めた経
済規模は GDP の 2 倍を超える。ご飯が炊かれ,おかずが仕込まれ,樽酒が鏡割りされる。しか
し,それらをすべて平らげる口はない。捨てるしかない。リフレ・マネーはごく一部しか GDP
増大に寄与せず,リフレを行うほど総需要と総供給の幸せな出会いは阻まれ,不況が長引き,財
政は悪化し,格差は拡がる。恐慌で冷静さを失って無意味な介入をするからだ。最良の対策は,
資本整理の進展を放置して,企業がいま一度収益が上がる投資サイクルに向けて歩み始めるのを
見守ることである。19 世紀にはこれが実行されていたからこそ,不況は長続きしなかった。

リフレこそ長期不況の生みの親であるということを経済学者は一刻も早く認識すべきで
ある。リフレをしながら不況を嘆くのは,厚着をしながら汗が出るとこぼすようなものである。
身から出た汗だ。対策は何か。服を脱ぐことだ。さらにコートを着ることではなく。
B オーストリア経済学における「プロセス主義」
オーストリア経済学の最大のメリットは,経済現象を順を追って論証してゆく方法にある。こ
れは「プロセス主義」という語で特徴づけられるが,正直な話,物事を順番どおり考えているだ
けであって,経済学の「方法」と改めて主張するのが恥ずかしいような当たり前の手続である。
しかし,逆に言えば,ふつうの経済学ではそんな当たり前のことすら実行していないことにな
る。さて,それは「恥ずかしい」ではすまない何か重大な欠陥になってはいないだろうか。
マネタリズムの理論的枠組は,新規のおカネが消費者物価をほぼ一定に保たせるように中央銀
行がおカネを注入せよと迫るものである。しかし,その間のプロセスについてはほとんど語るこ
とがない。それは彼らの体系が 2 時点間のマクロ指標を統計処理するだけの比較静学だからであ
る。しかし,その間に起こっていることは経済全体を巻き込む大混乱かもしれないのである。オ
ーストリア学派も比較静学を否定しているわけではなく,それに「財と貨幣の直接関係論」(money
relations)という名称を与えている。その最大の特徴は,資本理論を省いているという点である。
経済学者はいつも教科書の初めの方でおカネに価値尺度・交換手段・価値貯蔵の「三大機能」が
あると言うが,この新規のおカネも当然そのすべてを持つ。消費者が価値貯蔵機能を持たせたお
カネを企業が活用すると,それは資本と呼ばれる。財市場はつねに活動しているから,おカネに
価値尺度機能を持たせるには確かにフリードマンの言うように物価を安定させねばならない。そ
して,それにはおカネを注入する必要がある。しかし,それが資本となることだけはうまく阻止
する法律も制度もないから,売れないものがつくられ,結局この政策がバブルを招くのである。
だから物価は安定しない。上がって,また下がる。比較静学を超えて資本理論を含めた体系を設
定し,その中でただ単に「順番どおり」考えていけば,それはとても簡単にわかることである。
現代のマクロ経済学ではシカゴ的なものとケンブリッジ(ケインズ)的なものが融合し,ミク
ロ経済学まで含めるとさらにローザンヌ(ワルラス)的なものも融合して主流派をなす。意見が
別れることも多い彼らだが,一つだけ共通点がある。おカネを変数として組み込んだ包括的体系
を持たないという点である。おカネは,あるいは財に対して中立とされ,あるいは「流動性選
好」なる意味不明の語でやたらに重視されるのに資本としては分析されず,あるいは均衡成立ま
でに使い尽くされると言われる。いずれもふだん私たちが実際に見ている「当たり前」の世界と
は無関係である。それを説明できているのはオーストリア学派しかいない。したがって,「フリ
ードマン対ケインズ」などの図式に意味はない。彼らはともに資本理論なしに景気循環現象を説
明しようとしており,おカネに価値貯蔵機能が備わるために必ず生じてしまうことを十分考えな
い。フリードマンは若いころケインジアンだったと告白している 6
が,それはおそらく両者ともに
フィッシャーの数理的だが大雑把な集計値経済学を下敷きにしているためだろう。彼らは大雑把
な概括によって方程式を立て,一度そうするとそのあとは一見厳密そうにその方程式を取り扱
う。しかし,次の式が成り立つ。
6 村井明彦「グリーンスパンのアイン・ランド・コネクション 3 ──「根拠なき熱狂」講演の根拠」『同
志社商学』第 65 巻第 1 号,2013 年 7 月。
書評:木村貴『デフレの神話』(村井)
大雑把 × 厳密 = 大雑把
これは方程式ではなく恒等式である。ミーゼスはフィッシャーの交換方程式の成立可能性すら
否定しているが,それは物価(prices)といった基本概念すら個々の財の交換が生み出す価格
(price)の大雑把な平均値にすぎず,これをマクロ分析に用いるために必要な論理のステップが
欠けているためであろう。著者も高橋洋一が乗数効果の解説で厳密な推論の結果に実に行き当た
りばったりで大雑把な修正を加える様を揶揄しているが(3.3),主流派経済学の論証面の密度は
昔からずっとこの程度である。
C ニワタマ論の「出口戦略」
第Ⅰ節で論者たちの理論的想定として「デフレ・スパイラル」の話をしたが,賃金はいまでは
かなり柔軟に下がり,それによる購買力の減少が物価を押し下げているとの反論が出てくるかも
しれない。この反論は,1970 年代ころ盛んに言われていた「コスト・プッシュ・インフレ論」
の裏返しだから,「コスト・プル・デフレ論」とでも呼べる。ただ,何とも一知半解な説である。
いちばん驚かされるのは,価値論における限界革命を無視している点だ。古典派はその末期のマ
ルクスを含めて,価格は労働時間という客観的基準で決まると考えたが,1870 年代に英仏独の 3
大言語圏で同時多発的に効用という主観的基準を重視してこれを覆す理論が生まれた。こんなこ
とは高校生でも知ってる基礎知識だ。
物価がコストで決まるとするなら,そのコストは何で決まるかを答えねばならない。この循環
問題を解決するために,オーストリア学派は「帰属理論」を展開し,むしろ物価がコストを決め
ると説いたのであった。だから,コスト・プル・デフレ論者は改めてコストを決める帰属要因
(第 1 原因)を特定する必要がある。さもないと「ニワタマ論」に陥るだろう。しかし,実際に
特定しようとすれば,労働価値説といくらも違わない古色蒼然たる理論を墓から掘り起こしてし
まうに違いない。20 世紀後半の「大膨張」や最近の長期不況が限界革命以前の世界への突発的
な先祖帰りをもたらしたことは,それ自体が歴史的な分析の対象である。
コストはミクロな視点からは他社(取引先)製品の価格や自社社員の給料だが,後者は社員が
買う他社製品の価格にも左右される。レストランは客が減れば価格を下げるが,そういう店が増
えると需要が減った食材の価格は下がり,料理人やウェイター,ウェイトレスの給料も下がる。
確かに給料が減った料理人たちがものを買う額は減るが,だからといって一連の事象を賃金低下
によるデフレなどと呼ぶのは一面的である。物価が下がっているから給料を下げることができる
のである。物価がコストに何も影響を与えないと言えるのか。この手の議論の弱点は説明の発端
がいかにもアドホックに設定される点にある。なぜ料理人たちの給料が減ったかを最後まで説明
しないなら,経済理論としては中途半端だと言うしかない。ニワタマ論の「出口戦略」を探るに
は,まず一連の事象の発端が何かを明らかにしなければならない。
しかし,そのためには人類がおカネについて考えてきた思想史全体を視野に収める必要があ
る。対立の起源は中世にある。当時すでにコストが物価を決めるという説と物価がコストを決め
るという説が争っていたが,この事実はいまの経済学史の本ではほとんど無視されている。一方
で,スコトゥスなどが物価安定論を唱えており,この立場はのちに英米で有力になる。他方で,
カジェタン,ビール,オレームなどが物価変動論を説いており,それはのちに大陸で影響力を持
った。前者はおカネを価値尺度と見て価格が客観的基準で決まると考えた。後者はおカネを交換
手段と見て価格が主観的基準で決まると考えた。
経済学は 18 世紀に生まれたと思い込んでいる人が多いが,単なる神話である。それは 14 世
紀,考えようによってはアキナス時代の 13 世紀にすでに生まれている。16 世紀スペインのサラ
マンカ学派においては物価変動論が優勢で,18 世紀にもカンティヨンやチュルゴはこの立場を
とった。しかし,スミス以来の古典派の展開の中で物価安定論が台頭した。中世以来主観的価値
論が通説だったから,1870 年代に限界革命があったというより,1770 年代に客観革命があった
と言うべきである。そして,マルクス,ケインズ,フリードマンがこれを世に広めてしまった。
ニュアンスこそまちまちだが,彼らはみなおカネを価値尺度とするために国がそれをコントロー
ルすべきだという国家統制主義の思想を根の深いところで共有していた点で,仲間どうしだ。
著者もこの点を見逃さない(5.8)。フリードマンはリバタリアンを自称しているが,確かに周
縁的な政策分野で自由主義的な議論を展開したものの,何しろ通貨供給市場の中央銀行独占を少
しも疑わなかったのだから,やはり定義によって社会主義的だと言わざるをえない。一般財の市
場で規制をなくしても,貨幣市場さえコントロールすれば,政府はやすやすと経済全体を支配で
きる。おカネはもとは一般財の一つであったが,それがおカネになってからは特殊財ともなり,
どんな商取引にも登場する財としては唯一のものである。だからそれ一つで全体を左右できるわ からだ
けだ。人体はさまざまな物質からなるが,誰でもおかしな水を飲まされただけで身体を壊せる。
財市場も貨幣市場も放任すれば原理的にバブルは起きない。バブルとは,何でも買える特殊財
である貨幣財が過剰生産されることで他の一般財の市場で超過需要が生じて経済全体が撹乱され
る現象であるが,貨幣供給市場を自由化すれば貨幣需要の自然な水準を超えてお札を供給すると
交換できなくなるリスクが高まるので過剰生産が止むからである。ところが,マネタリストは,
財市場でいかに自由放任を説いても貨幣供給市場を規制し,しかも物価を安定させるために自然
な水準を超える方向に規制する。私たちは,よく戦時中に食糧が配給制だったなどと聞くので
「経済統制」という語を欲しいだけ手に入れられないという不足感とともにイメージする。つま
り経済統制とはいつも「削減統制」だと考える。そして,逆に必要以上に配給する経済統制もあ
ると考えることはない。主流派経済学とは,おカネに関して削減統制ではなく「膨張統制」を求
める立場である。この意味で,彼らはバブルの,したがってデフレの請負人なのである。
今日の経済学の学派展開の中で物価安定に反対しているのはオーストリア学派だけだから,そ
れは中世経済学の物価変動論を受け継ぐ唯一の学派である。また,主流派はどの学派も主流では
なかった物価安定論の陣営の末裔であることにもなる。つまり,経済学史全体を視野に入れたと
き本当に重要な対立軸は「オーストリア学派対その他全部」である。おカネをモデルに組み込ま
ない陣営と組み込む陣営がある。経済学史六百年を貫く最大の対立軸が,オーストリア学派の新
生によって再びはっきりと浮上しつつある。
D 野蛮と文明
筆者が冒頭で「先例の欠如」といった表現を用いた理由が徐々に明らかになりつつあるのでは
なかろうか。だが,明治以来すでに百五十年近い経済学導入史を持つ国ならば,こうしたことに
そろそろ気づかねばならない。本書が開示した思想空間は,最終的には経済学史の総体的見直し
を迫る所まで発展する可能性がある。
実物財がおカネである社会では,財の生産活動がふつうに行われていれば,当然物価は漸次低
下していく。これを「マイルド・デフレ」と呼ぶとすれば,それは法令貨幣制における循環的デ
フレとは本質的に異なる。むろん,実物財をおカネにしていても,例えば新たな金鉱が発見され
れば景気循環が起こるだろう。ただ,その頻度と規模は現在とは比べものにならないだろう。重
要なことは,この社会では物価調整が行われるという点である。
中世には法令貨幣制が未発達だったので,物価変動を意識する人たちが多かったことに何も不
思議はない。一方,現代は法令貨幣時代である。そのもとでは,物価安定という膨張統制が敷か
れ,労働法などによって物価下落が規制されているから物価調整もない。デフレはバブルの後遺
症としてやってくるが,放任しさえすれば自然に治癒する。指を切って血が出てもそのうち血は
止まり,かさぶたができ,気がつくと傷跡も目立たなくなるように。しかし,大恐慌後の「レジ
ーム・チェンジ」で事態は一変し,デフレはいまや放置すれば死に至る重病を招く病原菌さなが
らの実にひどい言われようだ。だから介入するわけだが,それがかえって治癒を遅らせ,デフレ
を慢性病にしてしまう。
現代オーストリア学派としてのミーゼス派は,銀行の金庫にある貴金属と同額の信用貨幣の発
行のみに制限する「完全準備金本位制」を提言しているが,それはそもそも人為的な原因による
バブルを二度と起こさないようにするためである。これが急進的すぎると反論するのは自由であ
るが,一つだけ忘れてはならないことがある。それは,この提言が,経済現象を実際に起こして
いる実在する人間の実在する動機から説き起こされた行為を素材に組み立てられた ABCT とい
う体系的理論に基づいているという点である。このことは,法令貨幣制のもとではマクロ経済は
ABCT が想定するようなプロセスを伴って推移するということを意味する。だから,法令貨幣制
を続けるとしても,デフレ段階での介入をなるべく減らすことがその悪化を防ぐ方法であること
も客観的かつ厳然たる事実である。
法令貨幣制のもとでの物価安定論とソリが合う流派が法令貨幣制以前の中世貨幣思想の中から
選ばれる。そう断らずに。だが,財市場の活動は中世より現代の方が盛んだから,同じ目的の達
成にもより強い国家統制が必要になる。だから,それを求める知も必要になる。現代主流派経済
学の出番だ。そんな立場から吐かれた無責任な言葉が経済論壇を埋め尽くしてから生まれた私た さえぎ
ちは,そびえ立つ空言アルプスに遮られて経済学史の実像を展望することすら叶わない。
しかし,物価変動論的貨幣思想がかつて実在し,いまも脈々と息づいているという事実を否定
することは不可能である。それを受け継いで初めてマクロ経済の作用様式を時間・空間の両面で
包括的に把握したのはミーゼスであった。このため,彼の経済学は戦間期には一時期主流派にな
っていた。ところが,飢え渇く権力の口に潤沢な糧食を注ぎ入れるケインズの教説によって,こ
の流れは途絶する。
物価安定が何をもたらすかを理解している者はあまりに少ない。メリットの説明もなしに漠然
と物価安定を求めるのではなく,経済社会そのものの安定を求めるなら,先行世代を石アタマ呼
ばわりする,それ自体石アタマ的思想をきれいに捨て去り,大陸経済学の伝統を振り返ってみる
ことだ。私たちはバブルなしに生じるデフレ,つまり単独デフレを経験したことがない「デフレ
を知らない子供たち」である。還暦を超えた老大家から,厳しい知的鍛錬を避けて安直本で書棚
を埋め尽くす自信過剰の評論家まで。法令貨幣制下のデフレが野蛮を生むからといって,もとも
と金本位制が文明の膝元にあってそれを支えていたことを無視するだけではすまず,あたかもそ
れが野蛮の生みの親であったかの妄言で歴史を歪曲することは,知性と人間性の破壊に拍手を送
る蛮行である。
現存世代は誰もマイルド・デフレを経験していない。しかし,理論は人に経験を超えさせる。
近代には中世の学問を侮蔑することが流行となったが,自然科学が未発達だった分,中世人は人
間を近代人よりはるかによく研究していた。そして,人間諸学にはるかに厳密な論証を求めた。
この分野では中世の方が近代的であった。いま経済学にとって重要なのはアドホックな実証の推
進などではさらさらなく,むしろ論証的理論の復権にほかならない。物事をじっくり考えられる
人間でないと決してこの変革を担えない。考えてみれば,著者が批判している書き手たちに経済
学を教えてきたのは私たち大学教員である。だとすれば,本当に反省しなければならないのが誰
かは改めて問うまでもない。
日本にも論証的理論から経済を分析できる論客がいるという筆者の主張の真偽を自分の眼で確
かめたければ,本書を一読することお勧めする。それ以上を望むなら,著者が好意的に取り上げ
た数少ない本,2.2, 2.5, 3.6, 5.9, 5.10, 6.1, 6.9, 6.10 を読むことである。それらの書き手は,リバ
タリアンか,そうでないとしてもそれを理解している人たちである。ただ,残念ながら越後和典
滋賀大名誉教授を除くとすべて外人である。わが国の経済論壇にはそれだけ真の思考者が少な
い。もはや新しい理論を学ぶ気力もなく,どうもハイエクはフリードマンとは少し違うらしいと
いう程度の認識しかないナイーヴな諸氏は,まず 5.3, 5.4, 5.8, 5.9 で洗礼を受け,ショックで落
ち込まない場合だけ他のセクションに進めばよい。
著者に好意的に書いてもらえる日本人が増えるには,やはり人から教わった知識で満足せずに
自分のアタマで物事を考えることを習慣づけるしかなかろう。私たち日本人は,個を確立すると
いう宿題をせずに学校に来てしまったので廊下に立たされている小学生のようなものだ。どれく き
らいの間立たされているかは訊かない方がいい。かれこれ二千年近くにもなるのだから。廊下は にぎ
ラッシュ時の駅みたいに賑やかになっている。最近では売店が軒を競って廊下暮らしを応援する
本が並ぶようにもなった。本書の著者はガランとした教室の中で勉強を続けている。教室に戻る
ためにも,窓を開けて著者の考えに耳を傾けてみてはどうであろうか。この書評がそのためのほ
んのきっかけ程度にでもなれば幸いである。

‹9›

 

日銀と経済政策

経済政策を立案する者は、経済論理から逃れえない。誰もが何らかの経済論理の下僕である。しかし、同時に彼は現実とも向き合わざるを得ない。一定期間の後、政策効果が統計数値によって明かされるからである。もしも経済学が最新の一学説に収斂されているならば、政策立案前の経済論理の選択は不要となり、彼の肩の荷は半分降りたことになる。
彼に残された仕事は、経済論理と現実の齟齬を如何に取り繕うか、すなわち如何なる言い訳をするかだけとなろう。実際、現代経済学の数理的体系を指して、経済学は一体化されたと考える経済学者も多い。しかし、それは経済学が社会科学の一員たることを忘れた者たちの誤解である。自然科学と同様の普遍性を経済学に求めることは、経済学から現実性(特
殊性)を奪うことを意味する。現代の主流派経済学は新古典派理論の後継の諸学説であり、現実性を無視し、論理的厳密性を重視する立場である。それは非現実的な論理の楼閣に過ぎず、現実からの砲撃に堪え得るものではない。しかし、その非現実的論理に基づき政策を立案しているのが日本の行政府の現況なのである。その一例として、この小論では、
安倍政権下における日本銀行の金融政策が当初の目標を全く達成できていない理由について考察する。日銀が金融政策の論拠としてきたリフレ派理論および現代マクロ経済学の現実経済への非適合性を具体的に説明することで、金融政策の限界を明らかにする。手順としては、先ず日銀とリフレ派の関係および変転する金融政策の内容を概観し、次に論理
的背景を詳らかにする。
キーワード
アベノミクス,リフレ派,期待,現代マクロ経済学,貨
幣錯覚
1. リフレ派との邂逅
2013 年 3 月、日銀総裁に黒田東彦が就任して以来、日銀は前例のない金融緩和に踏み込んだ。操作目標を短期金利からベースマネーに変更し、かつインフレ期待(予想)が 2% に達するまで量的緩和を継続するとのコミットメントを発したのである。いわゆるデフレ脱却のための「コミットメント付き量的・質的金融緩和政策」の発動である。
量的緩和によって民間主体の期待を変えられるという論理は、黒田以前の日銀レジームを批判してきたリフレ派と呼ばれる一群の経済学者集団の主張であった。当時その考え方は、後に述べるように、マクロ経済現象のミクロ的基礎付けを重視する主流派経済学の考え方に基本的に立脚しているが、その基礎付けに関して特殊な見方をしていると考えられていた。それが日の目を見たのは、彼らが当時「下野」していた安倍晋三自民党総裁を、勉強会を通じてリフレ派の賛同者に転じさせたことはよく知られた事実である(小野, 2015)。
2012 年末の総選挙に勝利し、政権に復帰した安倍は独自の経済政策、すなわち金融緩和と積極的な財政出動のポリシー・ミックスによってデフレ脱却を図るとする、いわゆる「アベノミクス」の実施を表明した。その際、実務面の黒田に加え、リフレ派の理論的支柱であった岩田規久男を日銀副総裁に抜擢した。その結果、日銀は見
る間にリフレ派のいわゆる出城と化したと解釈できよう。
アベノミクスは初年度こそ大きな成果を上げたが、安倍自身が 2014 年 4 月に消費税増税を実施し、同時に財政支出を縮小させるという緊縮財政路線へ舵を切って以降、デフレ脱却に「暗雲」が垂れ込めた(藤井, 2017)。
当時、消費税増税の悪影響は量的緩和で埋め合わせることが可能であると豪語していた(日銀, 2013)黒田だったが、一向に好転しない景気状況を前に、当初は二年程度と表明していた 2 % インフレ目標の達成時期を先送りせざるを得なくなった。日銀による達成時期の先送りは五度におよび、2017 年 1 月の段階では黒田の任期満了(2018 年 4 月)までの達成は不可能とされている(日銀,2017a)。
インフレ期待が高まらないことから、量的緩和の効果への疑念が深まり、黒田日銀に対する信頼は低下していった。ついに 2016 年 1 月、追い詰められた黒田は操作目標を量から短期金利へと再転換せざるを得なくなった。それが「マイナス金利付き量的・質的金融緩和政策」である(日銀, 2016a)。この時点で、リフレ派理論からの離脱を黒田は図っていたと解釈することもできよう。
ただし、これまでの経緯より、リフレ派政策の無効性および金融政策の限界を表明するところまでは踏み込めず、それは 2016 年 9 月の金融政策決定会合における「金融政策に関する総括的検証(以下、日銀総括とする)」に持ち越されることになった(日銀, 2016b)。ほぼ三年間主張してきた言説を翻すに至った言い訳を考えるための時間稼ぎを目論んだと解釈することもできよう。
当該会合において総括された主内容は、操作目標としての量的緩和の取り下げである。表面上は、「長短金利操6 青木 泰樹:経済思想に翻弄される日銀の金融政策実践政策学 第 3 巻 1 号 2017 年作付き量的・質的金融緩和政策」と日銀内のリフレ派に配慮した両論併記の目標を掲げてはいる。しかし、それは矛盾している。量と金利の二つの目標を同時に達成することは不可能だからである。一方を目標に据えたとき、他は必然的に制御できなくなってしまう。例えば、量的緩和の目標として国債を年間 80 兆円購入する場合、金利がいかなる水準であろうと目標額を買わねばならない。
すると 0 % に設定した金利目標は達成されない。逆に、長期金利が 0 % の目標範囲に収まっている場合、国債を買い取る必要はないため、今度は量的目標を達成できない。
日銀(2016b)は、今後の日銀の政策は、量的緩和を長短金利操作の下位に置くということを宣言するものと解釈できることから、それは「量的緩和によるインフレ期待の変更は不可能であった」ことを認めたのと同じであると言うことができよう。つまり黒田はリフレ派理論を三年半におよぶ社会実験の末に棄却したと解釈せざるをえない。
2. リフレ派からの脱却後
それではリフレ派理論から離れた黒田は、今後の金融政策の理論的支柱を如何なる経済思想に求めたのか。それは先の日銀総括によって窺い知ることができる。以下、その点を理論的視点から解釈したい。
そもそもそこで検証された最も重要なことは、日本経済における期待の形成過程に関する傾向(事実)である。
一般に経済学では、インフレ期待を中央銀行の物価目標から影響を受ける「フォワード・ルッキングな期待形成」と過去および現実の物価上昇率の影響を受ける「適合的な期待形成」の二側面から考える(青木, 2016)。今般の検証において日本では、短期(1 年後)のインフレ予想の約 7 割、中長期(6 ~ 10 年後)のそれの約 4 割が適合的な期待形成に基づいていたことが確認されたのである(日銀, 2016b)。
ここで日銀総括におけるインフレ期待とは誰の予想かについても付言しておく。それは日経センターの ESPフォーキャスト調査に基づく「コンセンサス・フォーキャスト」に基づくものである(日銀, 2016b)。

実は、それは40 名ほどの民間エコノミストの予想の平均なのである。
彼らは常に中央銀行の動向に関心を寄せる金融のプロであり、現代経済学の知識も多少なりとも有しているはずである。そうしたプロの予想でさえ約 7 割も適合的に形成されているのであるから、まして一般の個人や経営者の予想は、ほぼ適合的に形成されていると見なして差し支えない。
筆者としては、この日銀による事実確認は遅きに失したと断じざるを得ない。言うまでもなく、リフレ派理論は人々の期待を量的緩和とコミットメントによって変えられると主張してきた(岩田, 2013a)。そう主張するためには、前段階として人々の期待がどのように形成されるかの確認(検証)が必要であったはずである。量的緩和を実施する前に為すべきことを三年半も怠ってきた日銀の罪は重いと言わざるを得ないのではないかと考えられる。
人々が適合的に期待を形成するということは、「過去と現在の状況を考慮して将来を予想する」ことを意味する。
今般の検証結果からして、それは極めて現実的な予想の立て方に思える。しかし、適合的な期待形成は現代マクロ経済学の考え方と真っ向から対立するのである。
現代マクロ経済学とは、全体(マクロ)を個(ミクロ)の合理的行動から説明しようと試みる分析方法であり、一般に「マクロ経済のミクロ的基礎付け」と呼ばれている学問分野である(青木, 2012)。新古典派理論から派生した「新しい古典派」および「ニューケインジアン」等から成る、現代の主流派経済学である(平山, 2015)。
現代マクロ経済学の概要は後段に譲るとして、ここではそこで想定されている予想形成について簡略に説明しておく。言うまでもなく、現代マクロ経済学のベースとなる新古典派理論に登場するミクロ主体は合理的経済人である。彼が存在するのは、国家、国民、歴史、文化等の一切の社会関係を排除した「市場システム」という架空の場であり、そこには時間も存在しない。彼の唯一の行動は「交換」を通じて主観的満足(効用)を最大化することだけである。交換をするか否かの基準が「価格」であるが、それは正確には諸財間の相対価格(交換比率)
であるため、貨幣の存在余地はない。合理的経済人は全て同じ価値基準を持ち、同じ情報量(完全情報)を有する同質的主体なのである。
新古典派の世界で、合理的経済人は将来を如何に予想するのか。無時間的世界であるから予想はしない。しかし、異時点間の選択行動を分析対象とする動学化のために無理やり論理的時間、すなわち歴史的時間と異なる観念上の時間を導入することは可能である。無時間の世界を時間軸上で引っ張るイメージである。すると無時間の場合の「完全情報」の仮定が、時間導入後は「完全予見」の仮定に転ずる。強いて言えば、将来は全て知られているというのが、新古典派の予想形成である。
現代マクロ経済学も、当然のことながら、論理的には新古典派と同様の考え方をする。「ミクロ主体は将来を見通せる」、言い換えれば、「将来予想は必ず実現する」と想定するのである。相対価格体系を変化させる、例えば技術進歩のような何らかの実質値へのショックが予想される場合、即座にそれに対応するように現在の行動を変化させて最適状態を維持する。それがフォワード・ルッキングな期待形成を行なうミクロ主体なのである。
黒田は日銀(2016b)を見る限り、彼の基本的な理論的構想の変更を図ろうとしている様子は見られない。確かに、インフレ目標を達成するための操作手段を量から金利へ変えたことは事実である。しかし、人々の期待を変化させてインフレにするという「期待の変化」を通じた政策経路は保持したままである。リフレ派を捨てて、現代マクロ経済学の論理に従おうとしているのである。それが「オーバーシュート型コミットメント」である(日銀, 2016b)。これまでのコミットメントは「インフレ率が2 % で安定するまで量的緩和を継続する」であったが、それを「一時的に 2 % を超えたとしても、2 % インフレの定着を確認するまで量的緩和を継続する」に替えたのである。
その意図を黒田は、フォワード・ルッキングな期待形成を強めるためとしている。量的緩和とコミットメントの両輪で期待を変えるリフレ派政策が頓挫したため、今度はコミットメントだけで期待を変えねばならなくなった。

そこで大袈裟にコミットメントすれば期待を変えられると考えたとも解釈できるところであるが、残念ながら「失敗」は目に見えていると考えられる。先の検証結果から明らかなように、日本人の多数が適合的に期待を形成しているからである。如何にコミットメントを強めても、生身の人間をフォワード・ルッキングな期待形成をする合理的経済人に改造することは不可能である。
黒田は、それを承知していながら、現代マクロ経済学の論理に頼って言い訳を続けている。主流派論理に基づく言説であれば経済学者であれエコノミストであれ、誰も批判できないと「高を括っている」という可能性も考えられよう。しかし、非現実的な経済論理に立脚した政策によって国民経済が疲弊することは由々しき事態である。後段では、黒田の立脚してきた経済論理が現実に全く妥当しないことの説明を通じて、誤った経済論理の現実への適用、いわば経済論理の濫用について警鐘を鳴らしたい。
3. 特殊なリフレ派論理
先ず、リフレ派理論が主流派経済学の中で特殊な見解と見なされる理由について指摘しておこう。フォワード・ルッキングな期待形成をする主体を前提としているところまでは両者に相違はない。しかし、フォワード・ルッキングな期待が如何に形成されるかという点に関して袂を分かつのである。すなわち前提とする経済モデルに登場するミクロ主体の想定が異なるのである。
主流派はミクロ主体が経済モデルに基づく期待形成、いわゆる合理的期待形成をしていると想定している。そこで用いられる合理的期待モデルは「貨幣錯覚」(Fisher,1919)を起こさないミクロ主体を前提にしている。彼は名目値の変動ではなく実質値の変動のみに関心を寄せる主体である。そうした想定は主流派の主張する「貨幣の中立性」、すなわち貨幣的要因と実物的要因は没交渉であることを反映したものである。貨幣錯覚を起こさないミクロ主体は、貨幣量の変動を一顧だにしない。それによって労働供給量や消費量といった実質値を変化させないのである。インフレであろうがデフレであろうが彼の主体的均衡には無関係なのである。
他方、リフレ派は合理的期待モデルに立脚していない。リフレ派は明示することを避けているが、貨幣数量説(平山, 2015)に基づいて期待形成を行うミクロ主体を前提として議論を進めている。しかし同時に、その主体は貨幣量の変動によって経済行動を変化させると想定しているのである。そのリフレ派の想定は、貨幣が「非中
立的」な世界を想定しているのと同じである。主流派は将来のインフレ予想を意味のないものと考え、逆にリフレ派はそれを実質値に影響を及ぼす重要なものと考えている。その相違は何に起因するのか。端的に言えば、それは「フィッシャーの方程式」の解釈の相違と言えよう。
フィッシャーの方程式とは、下記のように表わされる定義式である。
実質金利 = 名目金利 – 期待インフレ率 (1)
この式の因果を考えることで、それを均衡式とする仮説をつくることができる。主流派は(1)式を「名目金利の決定式」と考える。実質金利は物理的要因によって先決されており、貨幣量変動の影響は受けないと考える。
すなわち左辺は一定値なのである。すると期待インフレ率の変化は、名目金利を同じだけ変化させるだけとなる。
リフレ派はポール・クルーグマンの解釈(Krugman,1998)に倣い、この式を「実質金利の決定式」と捉えている(岩田, 2013a)。すなわち名目金利がゼロで固定されている場合を考えたのである。一種の「流動性の罠」の状態である。名目金利が動かないゼロ金利制約下において、期待インフレ率の変化が実質金利を動かすと解釈したのである。名目金利のゼロ制約という特殊な状況において、貨幣的要因と実物的要因が相互交渉すると考えたのである。
しかし、この見解は新古典派理論とケインズ経済学を折衷した、いわばハイブリッドな論理であるため、主流派としては到底受け入れられるはずもない。合理的経済人が流動性の罠にはまることは考えられないからである。
経済理論の中に住む住人が、現実世界に姿を見せることはない。リフレ派理論が特殊な論理と見なされる根源がここにある(青木, 2016)。
4. リフレ派論理の致命的欠陥
リフレ派の理論的支柱である日銀副総裁の岩田は、講演に際し、たびたびリフレ派政策の効果波及過程を示してきた(岩田, 2013)。彼は、量的緩和とコミットメントによって人々の期待は変化し、そこからさまざまな経路を通じて実体経済へ効果が波及してゆくと論じている。
しかし、岩田の説明には最重要な点が欠落している。政策効果の出発点、すなわち「量的緩和とコミットメントによって、なぜインフレ期待が形成されるのか」に関する論拠が示されていないのである。なぜそうなるのか。
その理由が説明されていないのである。
量的緩和とは民間経済の保有する現金、すなわちベースマネー(BM とする)を増加させる政策である。日銀は当初、年間 50 兆円ペースで BM を増加させ、2014 年 10月以降は年間 80 兆円ペースに増額した。BM 残高は 2017年 1 月末時点で 435 兆円であり、政策発動から 4 年間で300 兆円の増加となった。
岩田をはじめとするリフレ派は、少なくとも筆者の知る限りその論拠を示すことはないが、長期的には貨幣量8 青木 泰樹:経済思想に翻弄される日銀の金融政策
実践政策学 第 3 巻 1 号 2017 年
と物価水準の正の比例関係を示す貨幣数量説が成立すると考えていると思われる(岩田, 2013b)。それによってベースマネーの増加を物価上昇と結び付けている。しかし、この経済学の教科書的知識を現実に適用することは適切ではない。現実の政策経路を考えれば、数量説は妥当しないのである。それを簡単に示しておく。
一般に経済学は、主流派であろうとケインズ経済学であろうと、政府と民間経済を対置させて国民経済を考える。そして貨幣量のプールとして、経済内に貨幣市場をひとつだけ考える(青木, 2012)。こうした経済学の基本図式が経済学者の頭を支配しているために、彼らは現実を見誤る。必ず間違えるのである。リフレ派はその典型であり、今般の日銀の量的緩和政策に意義があるとすれば、それはまさしく教科書経済学に基づく政策の無効性を世間に知らしめたことにあろう。
リフレ派は、政府(ここでは日銀)が民間に現金を渡せば、民間人は必ずそれを使うだろうから物価は上がるはずだと考えていた。物々交換経済から分析を始発させた主流派の論理には、貨幣は交換手段としての役割しかないため、民間に注入された貨幣は必ず財貨の購買に向けられる。すなわち交換手段(財貨の購入)以外に貨幣を保有する意味はないのである。しかし、現実経済はそうではない。資産として保蔵される貨幣の役割を忘れてはならない。
教科書知識から離れ、現実経済へ接近するための第一歩は、政府と対置する民間経済が二部門に分かれていることを認識することである(青木, 2012)。すなわち、「民間金融部門」と「民間非金融部門」である。前者は資金貸借ならびに資産価格(金利)の決定の場である。後者が企業や個人から構成される実体経済であり、GDP および物価水準の決定の場である。言うまでもなく、物価水準を上昇させるためには実体経済の総需要を増加させることが必要となる。そのためには実体経済へ貨幣を注入せねばならない。すなわち、マネーストックを増加させねばならない。
リフレ派の致命的欠陥は、量的緩和によって BM を増やせば実体経済におけるマネーストックが増えると勘違いしていたことにある。貨幣数量説にとらわれ、現実経済の基本的なマネーの定義を失念していたとしか言いようがない、と言えるだろう。マネーストック(MS とする)は民間非金融部門の保有する現金(C1 とする)、および預金(D とする)の合計である。そこに民間金融部門の保有する現金(C2 とする)は含まれないのである。
MS = C1 + D (2)
他方、ベースマネーは民間保有の現金量である。
BM = C1 + C2 (3)
量的緩和は民間金融部門の保有する国債を買い取り、代金として現金を渡す政策であるから、(3)式の C2 を増加させるだけでマネーストックを増加させるものではない。実体経済に貨幣を注入するものではないのである。
銀行保有の C2 は主に日銀当座預金に積み増されるだけである。しかし、民間部門をひとつと想定する経済学者の場合、民間金融部門にのみ現金を注入することであったとしても、民間経済全体の現金量は増えると誤って認識してしまう。まさにリフレ派はその陥穽にはまっている。
岩田は、1990 年代前半に当時日銀在籍の翁邦雄とマネーに関する論争をした。それが「岩田・翁論争」である。岩田は、その論争でベースマネーによるマネーストック(当時はマネーサプライ)のコントロールは可能と主張していたが、それはベースマネーの増加を実体経済の現金量の増加と、上記の経緯を経て「勘違い」していたためである。当時、岩田は、貨幣乗数(m とする)が安定的に推移していると認識していた。貨幣乗数とは、BM とMS の比率であり、法定準備率を α とすれば次式で定義される。
m = MS / BM = (C1 + D)/(C1 + αD) (4)
この定義式で銀行保有の現金(C2)が、必要な法定準備額(αD)と一致していることに注意が必要である(C2= αD)。すなわち、法定準備を超える超過準備は存在しないことが暗黙に想定されているのである。
(4) 式を前提とすれば、ベースマネー増加(ΔBM)の政策効果は貨幣乗数の値で表されることになる。すなわち貨幣乗数倍のマネーストックの増加を生むのである。
ΔBM × m = ΔMS (5)
岩田は貨幣乗数の値が安定的に推移していた期間をとって、BM と MS は安定的関係を保持していると考えたのであろう。それが間違いのもとである。
岩田が見ていたのは、量的緩和という非伝統的な金融政策が実施されていなかった期間であると考えられる。
日銀の最初の量的緩和は 2001 年 3 月から 2006 年 3 月までであり、それ以前は実施されていなかった。量的緩和以前、日銀当座預金残高はほぼ一定額で推移していた。
1980 年代のバブル期前までは 2 兆円台、バブル絶頂期で4 ~ 5 兆円。1990 年代を見ると約 3 兆円から 4 兆円へ微増している(日銀, 2017c)。すなわち、岩田が見ていたのは、(3)式のC2がほぼ一定であった期間なのである(ΔC2 = 0)。
その場合、「ΔBM = ΔC1」となるから、民間非金融部門の保有する現金とマネーストックは(2)式より連動することになる。
ところが量的緩和は「ΔBM = ΔC2」である。他方、(2)式より C2 を含まないマネーストック(MS)は一定である。
したがって、量的緩和をすればするほど、貨幣乗数の値は低下することになる。日銀 HP の統計資料に基づき計算すると、量的緩和が開始された 2013 年 1 月に「8.7」であった貨幣乗数は、2017 年 1 月には「2.9」に低下している。ちなみに 2013 年 1 月の日銀当座預金残高は約 43 兆円、2017 年 1 月のそれは 330 兆円である。
今後も量的緩和が継続すれば、貨幣乗数が一層低下することは間違いない。それは事後的に決定される数値にすぎないのである。貨幣乗数一定との前提条件が成立しなければ、ベースマネーによるマネーストックコントロールは不可能ということになる。岩田の誤りは明白であろう。
C2 の増加、例えば日銀当座預金の増加とマネーストックの増加を結びつける唯一の理論的経路は、資金需要の逼迫時に民間銀行が日銀当座預金増を「準備増」と捉え融資を増加させる場合だけである。しかし、その場合もマネーストックの増加量を確定することはできない。例えば、法定準備率を現行の 1.3 % とすれば、理論上、1 兆円の準備増に対して約 77 兆円の融資を増加させることが可能となる。しかし、それほどの資金需要が出現するとは考えられない。それゆえ、この場合もベースマネーの増加とマネーストックの増加の関係を量的に確定できないのである。
5. 黒田日銀が間違え続ける理由
総裁就任後三年間、リフレ派論理に立脚した黒田は、量的緩和とその継続のコミットメントによって人々のインフレ期待を変えられると考えていた。リフレ派論理から離れた 2016 年 1 月以降、特に同年 9 月の日銀総括以降も、コミットメントを強化することで期待を変えようとしている。この「期待に働きかける」という政策スタンスは一貫しており、黒田にとっての生命線と言うことができよう。しかし、各国の中央銀行(以下、中銀とする)のうち政策目標として期待を変化させようとしているのは日銀だけである(翁, 2011)。その点でも黒田日銀は特殊といえる。
確かに量的緩和を行なっている中銀は多い。例えば、米国の連邦準備理事会(FRB)は、2008 年のリーマン・ショックを契機に 2014 年 10 月に至るまで、断続的に三回にわたって量的緩和(QE1 ~ 3)を実施した。また欧州中央銀行(ECB)も 2015 年 3 月より現在まで量的緩和政策を実施している。しかし、FRB および ECB の量的緩和の目的は金利の引き下げにあった(日銀, 2015)。双方ともインフレ目標を設定しているが、量的緩和をコミットメントすることで人々のインフレ期待を高めようとしているのではない。
なぜ各国の中銀は人々の期待に働きかけようと考えないのか。それは量的緩和が中銀のバランスシートの規模を拡大させるだけであることを認識しているからであると考えられる。バランスシートの規模の拡大によってインフレ期待が高まるという理屈は何処を探しても存在しないことを知っているからと考えざるを得ない。
日銀のバランスシートを例に説明しよう。バランスシートの資産側には日銀保有の国債残高、負債側には日銀当座預金のみがあると簡略化して考える。量的緩和は日銀が民間保有の国債を買い取り、代金を日銀当座預金に振り込むことである。それによって資産も負債も同額増える。バランスシートは拡大することになる。前に示したように、2013 年の緩和開始時の日銀当座預金残高は 43 兆円、2017 年 1 月には 330 兆円となった。およそ 8 倍に拡大した。しかし、日銀の目標とする生鮮食品を除く総合物価指数(コア CPI)は、2016 年平均対前年比でマイナス0.3 %であった。日本の場合、バランスシート拡大によってインフレ期待を高め、足元のインフレ率を押し上げることは全くできなかった。
量的緩和が、直接、自動的にインフレ期待を高める経路は存在しない。しかし、経済学説の中には、人間の心理を通じて間接的にインフレ期待に働きかける可能性を示唆するものもある。それが「複数均衡」の考え方である。
それは理屈ではなく、人々の思い込みによって将来の状況が変わる、すなわち到着地点が複数あるとの見解である。例えば、多くの人々が「将来は A の状態になる」と思えば A が、「B の状態になる」と思えば B が実現するということである。
まさしく黒田は、複数均衡の考え方に従ってコミットメントを発し、人々に自分を信じ込ませようとしているのである。しかし、四年間を経過しても、人々が黒田のコミットメントを信用していないのは統計数値が示す通りである(財務省, 2017b)。日銀(2016b)の適合的期待に関する報告値から明らかなように「これまでできなかったことは、これからもできない」と多くの人々は考えている。複数均衡の論理に従えば、それが将来実現する姿なのである。すなわち、今後、黒田が如何に強力なコミットメントを発しようとも、インフレ期待は高まるとは考え難い。
他方、各国の中銀はそうした見解に与していない。量的緩和によって金利を引き下げ、実体経済の活動を活発化させ、総需要を拡大させ、結果的に足元の物価を上昇させ、それによって人々が将来もそうした傾向が続くと期待することが政策の効果であると考えているのである。
人々は、過去から現在へ至る情報から将来を予想するというバックワード・ルッキングな期待、すなわち適合的期待に基づいて行動していると考えていると思われる。
少なくともこの点について言うなら、各国の中銀は、日銀よりも現実を直視していることは確かであろう。
6. 現代マクロ経済学再考
黒田日銀の金融政策が経済学の知識をベースに現実に対応してきたことを論じてきた。ここでは経済学の学問的進展過程を素描することによって、経済学的知識に過度に依存することの危険性について説明したい。
1950 ~ 60 年代、マクロ経済学と言えばケインズ経済学であった。しかし、ケインズ経済学は1970年代より理論面、政策面、運用面からの批判を浴び、「ルーカス批判(Lucus,1976)」を契機として新たなマクロ経済分析の枠組に取って代わられた。それが現代マクロ経済学である。ここではその概要を論じると同時に、それが現実分析に全く馴
染まないことを指摘する。
ただし、誤解無きよう付け加えておくが、批判の集中10 青木 泰樹:経済思想に翻弄される日銀の金融政策砲火を浴びたケインズ経済学は、正確にはケインズの主著『雇用、利子および貨幣に関する一般理論』において展開された論理ではない。それは後に J. R. ヒックスが、ケインズ自身の構築した論理から不確実性を除去することで定式化した「IS - LM 分析」をベースにした論理である(Hicks, 1937)。後に、アメリカ・ケインジアンはそれに「フィリップス曲線」の論理を加え、ケインズ派経済学として普及させたのである。
現代マクロ経済学の特徴を一言でいえば、それが特定の論理体系を指すものではないことである。それはマクロ動学分析の「問題設定(目的設定)」と「解析方法」に関する共通のルール、いわば方法に関する統一的見解である。したがって、分析ツール(道具)と見なすのが適切である。
共通の問題設定とは、「ルーカス批判に耐え得るモデル」でなければならないことである。そのためのルールを二つ挙げておく。第一に、マクロ現象はミクロ主体の合理的行動から説明されねばならないというルールである。
具体的には個人の効用最大化を目的関数としてモデルを組まなくてはならないこと。第二に、マクロモデルは、「予見されるショック(攪乱)」を考慮できなくてはならないというルールである。例えば、政府が一年後に消費税率を 2 % 上げると告知した場合、それに対応するように現在の行動を変えられるミクロ主体の想定が必要となる。
それがフォワード・ルッキングな期待形成を行うミクロ主体なのである。
次に現代マクロ経済学で使用する解析方法は、1982 年にフィン・キドランドとエドワード・プレスコットが提示した「実物的景気循環モデル(RBC モデル)」で使用された解析方法に準拠していなければならないことである。
RBC モデルを拡張したモデルが、現代マクロ経済学の中心である「動学的一般均衡モデル(DSGE モデル)」という分析ツールである ( 加藤, 2007; 斉藤, 1996)。現代マクロ経済学は DSGE モデル群から成り立っている。具体的な解析手順は下記のように複雑なものである。
先ず最大化する目的関数を差分方程式もしくは微分方程式の形で提示する。ここが動学的と言われる所以である。次に制約条件を設定し、ラグランジュ乗数法を用いて最適条件式(オイラー方程式)を導出する。これが第一段階である。それから動学的な最適経路(パス)を求めるためにコンピューターを用いた複雑な計算過程を経て、シミュレーションを繰り返し現実データと比較するというプロセスが続く。ワルラスの一般均衡論のような静学モデルでは、最適条件式を求めれば済んだが、動学モデルの場合は最適パスという時間経路を求める必要が
あるために複雑さが増すのである。
経済学は均衡概念からして物理学の概念を借用してきた。現代マクロ経済学の解析方法も同じく物理学の解析力学からオイラー方程式を借用したものである。オイラー方程式の形で定式化すれば、後は物理学における既存の解法で解は得られることに経済学者が気付いたのである。
ただし、それでも極めて難解なので数学やコンピューターに精通した者以外は解くことはできない。筆者自身も論理を追うことはできても、実際に解を得るための計算はできない。しかし、下記で論じるように、現代マクロ経済学には現実的含意はほとんどないため、計算によって解を得られなくとも全く問題は生じない。現代マクロ経済学は、マクロ現象のミクロ的基礎付けの論理であるため、それは実質的にはミクロ理論なのである。それゆえ、現実分析とは性格の異なる数理経済学の一分野として位置付けるのが妥当であろう。
7. 予測のできない DSGE モデル実際、現代マクロ経済学はその問題設定からして、経済予測を行う分析ツールではない(加藤, 2007)。ルーカス批判に耐え得るためには、予見されるショックを考慮したモデルでなくてはならない。ショックによって変化するものは人間行動である。例えば、増税を予期すれば現在の消費量を変える。それをマクロで集計すれば、消
費性向の値が変わることになる。すなわち構造パラメーターが変化するのである。
先の例のように、1 年後に消費税率が 2 % 上がるケースを考える。増税の実施を決めた政府は、増税の経済への影響を如何に予測するのか。現在、民間および政府が経済予測に用いているのは、主にケインズ経済学に基づくマクロ構造モデルである。もちろん、それはミクロの主体的均衡を考慮するものではない。それに時系列データを加味して予測を行っている。マクロ構造モデルは、現在の構造パラメーターを一定として予測を行うものであり、予見されるショックを考慮できない。それゆえルーカス批判を浴びたのである。
しかし、期間中に構造パラメーターが変化するとしたら、現時点での予測はできようか。不可能である。パラメーターがどの程度変化するかわからないためである。構造パラメーターの数値が確定しなければ、予測値も確定できない。すなわち、ルーカス批判に耐え得るモデルは予測ができないモデルなのである。
確かに、予見されるショックを考慮できるモデルをつくることは理論的には正しい。それを考慮できないモデルよりも優れている。しかし、経済モデルに理想を求めた結果、現実の政策のインパクトを予測し、政策の判断に貢献するというモデルの有用性が失われるとすれば、大いに問題であろう。経済モデルは何のためにあるのか。
より一般的には、経済学は何のためにあるのか。現実経済を分析するためではないのか。そうした実用主義(プラグマティズム)的観点を完全に否定しているのが、現代マクロ経済学であり、それを支持する主流派経済学者なのである。好悪の問題ではなく、その事実を認識せねばならない。
8. 不確実性と貨幣錯覚
黒田は、自分は経済学の最先端の知識に基づいて政策を行っていると自負していよう。彼の頭の中にあるフォワード・ルッキングな期待形成をする主体は、まさしく現代マクロ経済学の想定するそれだからである。しかし、経済学の世界を前提としても、将来を正確に予想することは困難であることを指摘しておく。
先に合理的期待仮説について触れた。合理的期待とは人々があらゆる知識と情報を用いて立てる予想のことである。当然、それは経済モデルに基づく予想になる。問題はモデルの選択である。マクロ構造モデルを用いて予想をすると、ルーカス批判にあるように、予見されたショックが生じた場合、合理的予想は必ず外れることになる。それでは、DSGE モデルを選択すればどうか。それが将来を予測するものではないことも既に述べた通りである。いずれのモデルを用いても、正確な将来予測はできない。
それでは、日銀総裁のコミットメントを信じて予想するのはどうか。しかし、日銀のバランスシートの拡大が将来のインフレを生じさせる理屈が存在しないのであるから、黒田のコミットメントを信じることは合理的ではない。日本人全員が非合理な主体となって黒田教に改宗しない限り、予想は外れることになる。
このように経済学の世界でさえ将来予想は難しいのであるから、まして現実経済を前提とすれば、困難さは倍増する。不確実性の問題が立ちはだかるからである。主流派経済学では、将来生じる事象は事前に知られており、更にそれが発生する確率、すなわち確率分布も知られていると仮定されている。その経済観は、「将来は過去の確率的再現にすぎない」のである。すなわち主流派経済学は、「過去に生じたことのない事象が将来生じるかもしれない」という意味での不確実性を考慮できない。
主流派学者は、たびたび、「名目値ではなく、実質値で考えることが必要である」と論じる。すなわち貨幣錯覚を起こすのは非合理な人間であるとレッテルを貼る。しかし、不確実性を考慮すれば、現実に生きる人間は全員、貨幣錯覚を起こしていることになる。それが常態なのである。主流派学者といえども例外ではない。われわれは過去の物価水準を事後的に認識するだけであって、リアルタイムで現在の物価水準を正確に知ることはできない。
まして不確実性下の世界において、将来の物価水準を正確に知ることなど不可能である。物価水準がわからなければ、名目値を実質値に変換することはできないのである。
現在の経済活動は、名目値に基づいたものである。正確な将来予測ができないため、そうせざるを得ない。例えば投資(I とする)である。今、実質金利を r、名目金利を R、投資マインドを θ とする。投資マインドとは、不確実な世界における投資者の将来予測のことである(青木 , 2012)。投資決定において、これが最も重要な要因である。不確実性を考慮せず、実質値で考える主流派経済学における投資関数は下記で示される。
I = I(r)  (6)
他方、現実における投資関数は次式となる。
I = I(R, θ) (7)
現実においては投資マインドを一定とした場合にのみ、投資は名目金利に依存することになる。それでは名目金利がゼロの場合はどうなるのか。
黒田はリフレ派に従い、先に挙げた(1)式のフィッシャー方程式に基づきインフレ期待を引き上げることに躍起になっていた。実質金利を下げるためである。それでもインフレ期待が上昇しなかったため、リフレ派を離れマイナス金利政策を導入した。実質金利が下がらないことに業を煮やし、名目金利の押し下げに踏み切ったのである。しかし、それでも結果はついてこなかった。投資は盛り上がらなかった。
それが意味することは、われわれの文脈で考えれば、投資マインドの委縮である。
I = I(0, θ) (8)
名目金利のゼロ制約下では、投資マインドが投資を左右する。景気低迷期は、将来の不確実性が増大している時期である。将来不安の状況では民間主体はリスクをとれない。そのため政府が積極的な財政政策を発動して将来の総需要の増加を約束することが必要となる。すなわち、重要なのは、政府が「財政出動コミットメント」を発することである。
黒田のこだわってきた人々のインフレ期待を変えるための金融政策は、四年間に渡る社会実験を経て、その失敗が明らかとなった。黒田が非現実的な経済理論に基づいて発してきたコミットメントは、何の効果も発揮しなかった。最先端の経済学知識を用いたところで、人々の期待を変えることはできない。その理由はこれまでの説明で充分であろう。
黒田は、虚心坦懐に、日銀総括の検証結果を受け容れるべきである。人々は過去から現在の情報に基づいて将来を予想する。適合的に期待を形成するのである。適合的期待は、主流派経済学からすれば非合理な期待形成である。しかし、正確な将来予測ができない現実にあっては、すなわち貨幣錯覚を余儀なくされている状況下では、合理的な予想なのである。
9. 量的緩和の実践的意義:国債問題の最終解決
黒田日銀による量的緩和政策が、人々のインフレ期待を引き上げることに失敗したことを論じてきた。しかし、日銀の意図とは全く別の意味で、筆者は量的緩和政策が日本経済にとって有意義であったと考えている。筆者は以前より「民間保有国債の日銀への移し替え」が、国債問題の解決に不可欠であると指摘してきた(青木, 2012)。
量的緩和政策によって、まさにそうした事態が現出したのである。すなわち、国債問題を解決する経済環境が整ったのである。ここで言う国債問題とは、財務省 HP の「日本の財政を考える」欄で唱えられている「国債残高累増への懸念」を指す。すなわち、「巨額な国債残高を返済できないのではないか」という問題である。
具体的に説明しよう。量的緩和によって、平成 29 年 4月末の日銀保有の国債残高は 424 兆円強(日銀, 2017b)
であり、他方、平成 28 年度末の普通国債残高は 838 兆円(財務省, 2017a)である。四年間にわたる量的緩和政策によって、日銀は普通国債残高のほぼ五割を保有するに至った。
逆から見れば、民間保有の国債残高が急減したのである。
こうした経済環境の変化は、政府に何をもたらしたのか。
端的に言えば、実質的な政府の利払い費が、「一時的」にではあるが、減少したことである。日銀は、今後も年間80 兆円を目途に量的緩和を継続すると宣言しているため(日銀, 2016b)、今後も利払い費の減少は続く。
言うまでもなく、政府債務が問題になるのは、利払い費の発生と償還時の資金調達に関する懸念のためである。
このうち利払い費に関しては日銀保有の国債が増加するにつれて、すなわち民間保有の国債が日銀へ移し替えられるにつれて、政府の利払い費が実質的に減少する理由を示しておく。当然、政府は日銀に対しても利払いをする必要がある。しかし、日本銀行法第五十三条の第 5 項において、日銀は経費を控除した剰余金のうち 95 % を国庫納付金として政府へ納めることが定められている。経費部分は量的緩和政策を実施するか否かに関わらずほとんど変わらないと考えられるため、日銀の国債増加分への利払い費は、ほぼ政府へ還流すると考えて差し支えない。民間から日銀への国債の移し替えによって、国債残高に変化は生じないが、政府の実質的債務負担が減少することが量的緩和政策の第一の意義である。
言うまでもなく、債務負担が減った原因は、日銀が民間保有の「利払いの必要な国債」と「その必要のない現金」を交換したことによる。いわゆる国債の貨幣化が図られたためである。
ただし利払い費の減少傾向は、現段階では一過性のものと言える。現状において、日銀は「(民間から)国債を
一時的に買い取った段階」に達したにすぎないからである。「一過性の負担減」を「恒久的な負担減」にするためには、どうすれば良いのだろうか。答えは、日銀が「(民間から)国債を買い切った段階」へ進むことである。日銀が「買い取った国債をどう処分するか」の問題を出口戦略と呼ぶ。この出口戦略を誤ると、これまでの量的緩和が無に帰すばかりでなく、民間経済に多大な混乱を招くことが予想される。
一般に考えられている出口戦略は、日銀保有国債を民間へ売り戻すことである(翁, 2013)。この場合、民間保有の国債残高は量的緩和前の水準に戻ることになり、まさに利払い費の減少は日銀が国債を保有していた期間だけの一時的現象となる。更に、たとえ少しずつであっても、日銀が巨額の国債を将来に渡って市中で消化するとの出口戦略に踏み切れば、アナウンス効果を通じて金利の上昇圧力は高まり、株価をはじめとする金融資産価格および地価は急落することが予想される。さらに暴落の恐れが生じるかもしれない。2008 年 9 月のリーマン・ショックを持ち出すまでもなく、金融市場の混乱が金融機関の信用不安を生じさせる事態ともなれば、実体経済への悪影響は計り知れない。民間への国債売り戻しを選択すれば、これまでの量的緩和政策が有害であったとの評価が下されると予想されるばかりか、後に論じるように、国債問題解決の千載一遇のチャンスを逃すことにもなる。
量的緩和政策を国民経済に貢献した有意義な政策とするためには、そして筆者はそうせねばならないと考えるのであるが、適切な出口戦略を選択する必要がある。経済的混乱をもたらす民間への売り戻しという出口戦略をとれない以上、残された出口戦略は唯一つ、政府と日銀間で処分することである。政府と日銀は広義の政府部門を形成し、両者を一体化して「統合政府」と呼ぶこともある。その中で日銀保有国債を処分すれば、日銀が「(民間から)国債を買い切った」段階へ到達することになる。
問題は、広義の政府部門内で国債を処分するための具体的な方法は何かということである。それを次に説明しよう。
先ず概念上の処分方法について論じ、後段で現実的な具体的手法を提示する。日銀保有の国債残高(A)は、日銀のバランスシート(B/S)上では、資産側に計上されている。他方、民間保有分(B-A)と日銀保有分を合計した国債残高(B)は、政府の B/S 上では負債側に計上されている。いま、政府 B/S と日銀 B/S を合算した統合政府のB/S を考えると、日銀の国債資産に対応する分の政府負債が相殺され、統合政府の負債側から日銀保有分の国債残高は消失することになる。この観点からすれば、国債残高のうち日銀保有分が増えれば増えるほど、政府債務である国債残高は実質的に減ることになる。反対に、日銀が民間へ国債を売り戻せば、実質的な政府債務は増加する。
それでは政府と日銀の B/S を統合する方法とは何であろうか。それは「日銀の国債(資産)」と何らかの「政府負債」を交換することである。この交換によって政府および日銀の B/S の規模は変化しないが、その構成に変化が生じる。日銀の資産側では国債資産が「別の資産」に置き換わり、政府の負債側では日銀保有国債が「別の負債」に置き換わるのである。問題は、政府の「別の負債」に何を用いるかである。交換によって実質的な政府債務が減らなければ意味はない。そこで着目すべきは、日銀保有の普通国債が「利付き国債」ということである。利付きの国債を「利付でない政府債務」、すなわち「無利子の政府債務」と交換できれば、まさに国債残高(B = 838 兆円)から日銀保有分の国債(A = 424 兆円)を消し去ることができる。その場合、統合政府の実質的な純債務は、Bより A を差し引いた 414 兆円となる。
さて、概念的な日銀保有国債の処分方法を確認したところで、次に現実経済における処分方法を提示する。現在、国債は、最終的には現金通貨で償還されている。現金と交換されているのである。それでは現金通貨とは何か。『通貨の単位及び貨幣発行等に関する法律(昭和 62 年法律第42 号)』の第 2 条第 3 項によれば、「通貨とは、貨幣及び日本銀行法第 46 条第 1 項の規定より日本銀行が発行する銀行券をいう」と規定されており、さらに同法律第 4 条第 1 項には、「貨幣の製造及び発行の機能は政府に属す」とされている。現在、政府が発行する貨幣が、「硬貨」である。すると現金通貨の定義は下記のようになる。
現金通貨 = 政府貨幣(硬貨) + 日銀発行券
現金通貨を法律通りに解釈すれば、日銀保有分の国債を政府貨幣で償還することが可能となる。政府が発行する貨幣で、合法的に国債償還は可能なのである。日銀に政府貨幣を渡せば(日銀 B/S の資産側に政府が現金を振り込めば)、国債との交換は成立する。もちろん政府貨幣は無利子で、かつ償還の必要もないため、実質的な政府債務ではない。政府貨幣と国債の交換は、統合政府内部での取引のため、民間経済に悪影響は及ばない。
ここで民間への悪影響とは、金利の上昇およびインフレの高進を指す。政府貨幣と国債の交換によって、「金利が上昇する」もしくは「インフレになる」という論理的説明を筆者は聞いたことがない。金利上昇は国債市場で国債が超過供給状態にならなければ生じない。政府貨幣と国債の交換をしても、市中の国債市場で国債の売り圧力が高まることは考えられない。加えて、日銀が量的緩和政策を継続しているのであるから、金利上昇の可能性は考えられないのである。他方、インフレは総需要が過剰になった場合にしか生じない。政府貨幣と国債の交換によって総需要が拡大する論理もまた存在しないと思われる。
しかし、日本の現状を顧みるとき、政治家、官僚、財界人、経済学者等は政府貨幣の発行による国債償還を受け容れるほどの経済認識を持ち合わせていないように思われる。
固定観念に縛られて、政府貨幣の発行と聞くだけで反対する者もいるかもしれない。おそらく反対する人々の多くは、政府貨幣の発行を財貨購入と結びつけていると思われる。戦費調達のための政府貨幣の発行をイメージし、インフレになると即断しているのかもしれない。しかし、それは完全なる誤解である。既に民間の手から離れた日銀保有の国債と交換するために政府貨幣を発行するのである。民間と無関係な金融資産と債務の取引であることを忘れてはならない。
ただし、政府貨幣の発行を理屈抜きで回避したいと思う人々が存在する以上、次善の策、すなわち彼らを納得させるための便法を示す必要が生じる。それは現金通貨のうち日本銀行発行券(日銀券)での国債償還、すなわち日銀券と国債との交換である。現行でも国債整備基金特別会計を通じてこの方法が用いられている。償還資金となる現金は、一般会計や特別会計から調達されているのである。それに対し筆者は、償還のための現金を一般会計や特別会計ではなく、日銀から調達すべき方法を示したい。
10. 割引長期国債による日銀乗換え
国債償還のための資金を日銀から調達することは、財政法第 5 条によって禁止されている。しかし第 5 条のただし書きには「但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない」とある。これを受けて日銀法第 34 条第 3 項において「財政法第 5 条ただし書の規定による国会の議決を経た金額の範囲内において行う国債の応募又は引受け」を業務としておこなっている。現在、ただし書き規定によって、「日銀保有国債の中で償還期限が到来したものについては、借換えのための国債を日銀は引き受けることができる」
のである。それを「日銀乗換え」という。日銀乗換え額は、日銀の政策委員会の議決によって決定され、公表資料によれば 2013 年度から 2015 年度では 10 兆円程度、2016 年度は 8 兆円である。また 2017 年度は 3 兆円程度の乗換えが行われる予定である(日銀, 2016c)。
すなわち現行法の枠内において、国債償還のための国債を引き受けているのである。それでは現在、日銀が引き受けている国債は何か。それは一年物割引国債である「国庫短期証券」である。割引債とは、利息相当分を額面から差し引いて発行する債券である。例えば、一年後に100 円で償還される債券を 99 円もしくは 98 円で発行する債券であり、いわば利息を先取りしている債券である。
現在、国庫短期証券は償還期限に現金償還されている。
割引債を用いて国債の日銀引き受けが行われていることは、誰でも認めている事実である。筆者は、その状況を運用上の工夫によって、一歩進めれば国債問題は完全に解決すると考える。
第一の方法は、償還期限が来た日銀保有国債を、国庫短期証券で全額乗り換えることである。さらに国庫短期証券の償還時に、現金償還するのではなく別の国庫短期証券と交換することである。これを繰り返すことによって、日銀 B/S の規模は変わらないが、資産側で利付国債の割合が減り、割引債の割合が増えることになる。この割引債は政府が利払いをする必要もないと同時に、金利が変動しても債券価格の変動が生じないという特徴をもっている。すなわち、割引債の比重が高まれば、日銀保有国債が巨額に積み上げられていることから生じる、
「将来金利が上昇すれば、国債価格は下落し日銀のバランスシートは毀損するのではないか」といった懸念もなくなるのである。
第二の方法は、一年物の割引債で乗換えを続ける手間を省くために、割引債の期間を延ばすことである。一年物ではなく、二年物ではどうか。さらに五年物、十年物でもよいのではないか。そうした長期の割引債(長期ゼロクーポン債)を日銀乗換えに使う方法である。もちろん、最善なのは「無利子永久国債」であるが、政府貨幣と同様、国家の指導層には受け容れ難いかもしれない。彼らが容認できる段階から少しずつ前進するのが、現実的かつ実践的であろう。もちろん、日銀は保有する全ての国債を長期割引国債に替える必要はない。普通国債は金利調整の手段としてある程度保有しておかねばならない。腰だめの数字であるが、普通国債の比重は現在残高の三割程度で充分と思われる(量的緩和前の水準)。要は、政府債務の利払い費を減少させ、国債償還の問題を解消させ、日銀のバランスシート毀損の懸念を払拭すればよいのである。GDP、インフレ、金利動向を注視し、微調整していけばおのずと適正水準に落ち着くと思われる。量的緩和政策を「経済の健全化」に結び付ける発想こそが、今後の金融政策の方向を決定すべきではないだろうか。

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参考文献

‹1›高齢化社会と家計の金融経済行動: マクロ経済学的背景とミクロ経済学的インプリケーション-祝迫得夫 – 現代ファイナンス, 2021

‹2›経済主体と市場ー今井久登 – 豊橋創造大学紀要, 2002
‹3›企業の経営理論ー稲葉元吉 – 成城大學經濟研究, 2003
‹4›続・ワルラシアンのミクロ経済学ー一般均衡モデルの発展的理解ー三士修平著、日本評論社、2011年ー山下裕歩 – 季刊経済理論, 2014

‹5›リスク、不確実性、そして想定外ー植村修一 – 2012

‹6›観光経済学の視点ー麻生憲一 – 観光評論, 2015

‹7›ケインズ, レイヨンフーヴッド, 小野ー吉澤昌恭 – 広島経済大学経済研究論集, 2003

‹8›近年の期待インフレ率と流動性供給に関する研究ー英邦広 – 商学論集』(関西大学) 第, 2018

‹9›木村貴 「デフレの神話 リバタリアンの書評集2010ー12<経済編>」ー村井明彦, ムライアキヒコ – 同志社商学, 2014

‹10›経済思想に翻弄される日銀の金融政策ー青木泰樹 – Policy and Practice, 2017

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